Up 「指導法」の思い違い: 手段を目的に取り違える 作成: 2011-03-05
更新: 2011-03-05


    指導法は,<わからせる>法である。
    <わからせる>が目的であって,この目的を達成する方法を記述すると「指導法」になる。
    指導法は,目的に対する手段である。

    しかし,目的から手段を導くのは,熟達者のレベルである。
    教職に限らず,初心者に対する教育は,どの分野でもつぎのようになる:
     先ずは形から入りなさい。
     形の意味は,後からだんだんと合点がいくようになるから。
    このようになるのは,教育が一面この他ではあり得ないからである。


    しかし,「形」の教育は,それを受ける者が形を目的にしてしまうようになる。
    学習者は,「形の修得」を学習のゴールにしてしまう。

    「指導法」は,ここでいう「形」である。
    指導法の教育を受ける者は,指導法を授業の目的にしてしまう。
    手段を目的にしてしまう。

    指導法が目的になってしまった教員の「授業の成否」観はつぎのようになる:
    「生徒から多様な意見を引き出すことができた。(成功)」
    「生徒の答えが一通りになってしまった。(失敗)」
    「生徒間のコミュニケーションをうまく作り出せなかった。(失敗)」
    「生徒の主体的な動きを導けた。(成功)」
    「机間巡視がうまくできなかった。(失敗)」
    「あの生徒がよい考えをもっていたのに,それを活用できなかった。(失敗)」
    「あの生徒の意見を簡単に退けてしまい,かわいそうなことをした。(失敗)」
    「今日は,生徒の目が輝いていた。(成功)」
    「生徒がよろこんでくれた。(成功)」
    「チョークの色を巧く使い分けられた。(成功)」
    「到達度別グループ分けの複式授業ができた。(成功)」
    実際,今日,研究授業の事後検討会は,このような話で終始する。