Up 一般陶冶は,<数学を>の含蓄 作成: 2011-02-23
更新: 2011-02-25


    主流は,<数学で>である。
    専ら数学を教える/学ぶのは,「これだけやっていては,足りない!」「これ自体は,無意味である!」ということになる。
    そこで,学校数学は,一昔前なら「数学的考え方」を,少し前なら「数学的問題解決能力」を,そして近頃は「数学的コミュニケーション能力」「数学的リテラシー」を,陶冶するものとされる。

    しかし,<能力>のこのような求め方は,これまでを振り返って見ればわかるが,成功したためしがない
    そして,成功したためしがないのは,定めし,考え方に根本的な間違いがあるからである。

    本テクストはつぎの立場をとる:
    ひとは,いろいろなことに複雑に取り組んで成長するのではない。
    単純に見えることに深く取り組むことで,複雑に成長していく。
    単純に見えることには,広く深い含蓄がある。
    しかしこの含蓄が人には見えないため,「これだけやっていては,足りない!」「これ自体は,無意味である!」と思われてしまう。

    「数学的考え方」「数学的問題解決能力」「数学的コミュニケーション能力」「数学的リテラシー」のことばでイメージされている能力の陶冶は,数学本位の指導の含蓄として存るものであって,指導法をいじって外部的に求めるようなものではない。