Up <考えさせる>の対立概念が<教える>であるとする 作成: 2012-11-27
更新: 2012-11-27


    教員救済は,「いまのままでだいじょうぶ」を言ってあげること,「修業の道に入らねばならない」を言わないこと,である。
    そこで,教員は<わかっている・できる者>になり,生徒を上手に扱えるかどうかが,残る問題ということになる。

    すばらしい授業」は,生徒が所期のパフォーマンスを確かに現した授業のことになる。 そして,所期のパフォーマンスのうち,最も重要となるものが,<自分で考える>である。

    「生徒に自分で考えさせる」は,授業の必要条件である。 しかし,救済されようとする教員は,<答えを手短に求める>の構えになっている者であるので,「生徒に自分で考えさせる」を授業の十分条件に転倒してしまう。( 授業の必要条件を十分条件に転倒
    すなわち,「生徒に自分で考えさせる授業になっている,すばらしい授業だ!」となるわけである。

    すばらしい授業」が「生徒に自分で考えさせる授業」と同じになるとき,<考えさせる>を実現していることが,いまの自分の授業に対する合理化の形になる。
    合理化するときは,<考えさせる>の対立概念を立てることになる。
    そしてそれが,<教える>になる。

    <考えさせる>の対立概念がなぜ<教える>になるのか?
    (実際,生徒に自分で考えさせることは,<教える>の要素の一つである。 <考えさせる>と<教える>は,もともと対立概念になるものではない。)

    教員は,<教える>ができない。
    また,<教える>に向かうことは修業に入ることであるが,教員は修業に入れない。
    そこで,教員を救うとは,教員を<教える>から逃がしてやることである。
    こうして,教員救済である「すばらしい授業」は,<教える>と対立させる形で自分を立てるものになる。

    すばらしい授業」は,<教える>と対立させる形で自分を立てる。
    そして,<無意識>が,これを行う。
    「合理化の心理」と呼んでいるもの,それがこの<無意識>である。