Up 学習の結果は,ことばで言えない 作成: 2006-04-06
更新: 2006-04-06


    算数/数学の教師をやると,「なぜ算数/数学を勉強しなくてはならないんですか?」を相手にしなくてはならなくなる。
    この問いは,自分を算数・数学で苦しめる教師をやっつけたくて (この場合は「答えられないだろう」を見込んでいる) 発せられることもあり,算数・数学をやることでどんな意味があるのかを純粋に知りたくて発せられることもある。
    で,おそらく多くの教師が,相手に伝わるようには,うまく答えられないか,まったく答えられない。

    実際,学習の結果は,ことばで言えない。
    学習してどうなるかは,食べてどうなるかと似ている。
    肉や野菜を食べて,肉や野菜の特性がカラダに現れてくるわけではない。
    何か行動していて,「ここのところは,さっき食べた豚肉が効いている」「いまはさっき食べたほうれん草を使っている」とは言えない。
    「食べてどうなるか」に対して言えることは,エネルギーを得る,力が強くなる,カラダが大きくなるといった類のことだ。

    同様に,「分数なんか使わないよ」「微分積分やって何になる」に対する答えは,「ここのところで効いてくる」みたいな形にはならない。エネルギーを得る,力が強くなる,カラダが大きくなる,が答えの形だ。

      多くのひとは,「使わない職業に就くんだったら学習しなくていい」という答えをまっている (そのことばで慰撫されたい)。「実用の学」を「虚学」から区別してくれることを望む。しかし,はじめにはっきりさせておくが,「実用の学」と「虚学」の区別は立たない。

    何を勉強させるか (すなわち教育) は,何を食べさせるか (すなわち食育) と問題の立て方は同じ。 「良質なものを食べさせる」と同じスタンスで「良質なものを勉強させる」を考える。
    そして,経験的にこれがよかろうということで,いまの教科メニューができている。

    勉強の意味として「エネルギーを得る,力が強くなる,カラダが大きくなる」を納得するには,勉強しないことによる「エネルギーがない,力が弱い,カラダが小さい」を対置してみるとよい。

    例えば,勉強するかしないかで,視野の広さ,物事を構造化する力は,決定的に違ってくる。
    そしてこの勉強だが,「視野」「物事の構造化」勉強するのではない。勉強がもたらすカラダの変容として,視野の広さ,物事を構造化する力が現れてくるということだ。

    実際,「視野を広げたり物事を構造化する力をつけるには何をしたらよいか?」と問われても,答えは定まらない。いろいろなことが役に立つ。そしてそれぞれに特色が出てくる。ただしそれは,ことばにはならない。