Up 「三角形の内角の和は, 180度」 作成: 2013-10-15
更新: 2013-10-15


    証明は,「3つの内角を一つの頂点に集める」になる。
    「和」を「一箇所に集める」に代えるわけである。

    よってつぎの証明が,素直なものになる:



    《「ユークリッド幾何学」は「移動」の概念をもたない》にこだわるのであれば,つぎのようにする:



    学校現場では,ふつう,つぎの指導が見られる:
      《1辺を固定し,これと平行で対角の頂点を通る直線を「補助線」として引く》
    しかし,「補助線」は結果先取りであり,「証明のための証明」となって感心しない。
    (上の証明に見るように,「補助線」は試行の過程において出来上がってくるものである。)


    もっとも,「現行の授業の問題点」ということでいうと,証明の内容は「些少」のことになる。
    近頃は,教員はこの授業をつぎのように行うのである:
    1. ワークシートを配布
    2. 机間巡視
    3. グループでの話し合いをさせる
    4. ディジタルディスプレイで説明

    授業は,生徒に自身のカラダづくりを行わせる場である。
    この授業で生徒にさせなければならないのは,つぎのことである:
    白紙に,《ああでもないこうでもない》といろいろ作図してみる。失敗を繰り返す。
    その中で解決の形が浮かんでくることを,見出す。
    ああ,勉強とはこういうふうにするものなんだ!」の思いをもつ。

    勉強は,不自由なカラダを鍛錬して改善していくことである。
    カラダは不自由であるから,進歩は遅々たるものである。
    しかし,このことを理解しなければ,勉強にはならない。
    勉強ができるとは,《カラダは不自由である;進歩は遅々たるものである》の理解ができているということである。

    しかし,教員は,本来行うべき授業とは真逆の授業をする:
     
    1. ワークシートの配布は,「行儀よく作業しなさい」「お体裁をやりなさい」を言うことである。
    《失敗を繰り返す;失敗の中で学ぶ》の泥臭い作業があることを知らない者をつくろうということである。
    なぜこうなるかというと,教員自身が,勉強を「お体裁」で過ごしてきており,勉強を知らない者だからである。
    2. 机間巡視は,その教員が「教える」をできないから行うのである。
    3. グループでの話し合いをさせることは,ワークシートの「お体裁」作業で「お体裁」をつくれなかった生徒を,「まあいいか」にすることである。
    その生徒は,結局この授業で,勉強できなかった。勉強させてもらえなかった。
    そして,教員から「できない生徒」と称されることになるのである。
    4. ディジタルディスプレイは,その教員が「勉強はカラダ」を知らないことを示している。
    見ることはわかること・できること・つくれること」と思っているのである。
    実際には,見ることは,わかること・できること・つくれることではない。
    生徒は,最後まで,自身のカラダをまともに使わせてもらえなかった。
    わからなくて・できなくて・つくれなくてアタリマエである。
    しかし,教員から「できない生徒」と称されることになるのである。

    翻って,「できる生徒・できない生徒」を言う教員に出会ったら,「できない教員」だと思って間違いない。
    「できない教員」とは,自分が「できない教員」であることをわからない教員である。
    自分が「できない教員」であることをわかっている者は,「できる生徒・できない生徒」のことばは使えない・使わない。

    実際,教員は,教員養成課程学生時代は数学も授業理解もからっきしダメな学生である。
    そのダメなまま教員になる。
    授業がダメな教員でアタリマエなのである。
    料理職人なら,客に料理を出してよいというようになるまで,修業を積まねばならない。
    教員は,最初から客に料理を出す料理職人である。
    そして,修行がないので,最後までダメな者を続けることになる。

    教員にとって,授業は,「ダメな自分」をその都度見出し,修行の契機にしていく機会である。
    しかし,「できる生徒・できない生徒」を言うことで,この機会を台無しにする。

    教員は,ずっとダメであるしかない者として,授業で生徒を殺し続けるのが宿命である。
    生徒は,授業で教員に殺されるのが宿命である。
    これはどうしようもない
    教員に肝心なのは,いまの自分ができる《生徒に勉強させてあげる》を,せいぜいしっかりやることである。
    体裁をやらないこと・「教える」をごまかさないことである。


    こういうわけで,「三角形の内角の和は 180度」の指導法は,つぎのようになる:
     
    T: これから用紙を配る。ああでもないこうでもないと作図しなさい。
    T: 考えるのではなくて,カラダを動かす。カラダを自分で動かさなければ,何も始まらない。体裁でやらない,泥臭くやる。これが数学。
    T: 紙の両面ビッシリ書くことをやったら,解法も浮かんでくる。これは信じなさい。
    T: 勉強は,自分のカラダづくり。他のひとのできたのを聴いても,何にもならない。
    T: ということで,ジタバタやってみなさい。

    (手助けの形)
    T: ヒントは,三つの内角を一箇所に集める。「足して180度」の「足す」を「一箇所に集める」でやるわけだ。
    T: 要点は,「上手に一箇所に集める」。