Up 「かけ算の順序」の問いへの応じ方3タイプ  


    イデオロギーは,外部に問いが起こると,これを自陣に回収しようと試みる。 これは,イデオロギーの性分である。
    「数の積の順序」の問いが起こるとき,<数は量の抽象>のイデオロギーはこれを自陣に回収しようとする。

    しかし<数は量の抽象>は,「かけ算」そのものができない。 「かけ算の順序」の自説を唱えると,数の積の自分の論理が問われることになり,この論理の荒唐無稽を曝すことになり,結局墓穴を掘ってしまうことになる。
    そこで,回収に乗り出す体(てい)を一旦示したものの,すぐに後が続かなくなる。

    「かけ算の順序」の問いにどのような格好で対応すれば,墓穴を掘らずに済むか?
    一つに,思考停止を促すというやり方がある。
    すなわち,「かけ算の順序は,こだわるようなものではない。」「こだわるのは,愚である。」と,相手を諭す体(てい)をつくるのである。

    また一つに,問いを宙ぶらりんにするやり方がある。
    すなわち,「権威にたずねよう。」と相手に応えるのである。
    <数は量の抽象>の場合,「権威」は遠山啓ということになる。 したがって「遠山啓の著作を読もう。」が,この場合の応えの形になる。

    一方,「<数は量の抽象>は正しい!」の信念の固い者は,「かけ算の順序」の問題に対する<数は量の抽象>の答え (すなわち,正しい答え) を,はっきり示したいと思うだろう。 そして,こうしてつくられた論は,つぎのように結論するものになる:
     かけ算の順序は,厳格に定まる。
     ──こだわらなくてよいというものではない。
    なぜか?
    以下,こうなる理由を説明する。


    <数は量の抽象>でいくと,分数 2/3,4/5,8/15 は,つぎの量である:


    ところでこの 2/3,4/5,8/15は,2/3 × 4/5 = 8/15 の関係にある:


    翻って,「×」はこの関係の或る読み方を示すものということになる。
    しかし,この「或る読み方」はつくれるものではない。
    そこで,<数は量の抽象>は,それでも「×」を「量 × 量=量」にするために,つぎの解釈をつくる:
      「2/3 × 4/5 = 8/15」の前項の量は,「1あたり量」という量である。
    そして,この2つの量の積は,つぎのようになるものである(註)

    そしてこの解釈では,積の2数の意味/役割が違ってくるので,積の順序も定めねばならなくなる。

    こういうわけで,<数は量の抽象>の立場に立っていることは,「かけ算の順序」の問いへの応え方が一つになることにはならない。 「悪しきこだわり」タイプあり,「遠山啓にあたってみよう」タイプあり,そして「かけ算の順序はどちらでもよいというものではない」タイプあり,である。
    「かけ算の順序」の問いに<数は量の抽象>はどのように応えているか?を見ようとするときは,このあたりを間違わないようにしなければならない。


     註 : 数学の<数は量の比>では,「2/3 × 4/5 = 8/15」の図式はつぎのようになる:


    <数は量の抽象>の図式を<数は量の比>の図式と比べることで,<数は量の抽象>の図式の無駄が見えてくる。 ──数学を知っている者なら,この「無駄」をさらに「循環論法」の言い方で説明できるだろう。