Up イデオロギーは,引っ込みがつかない  


    <数は量の抽象>が数学として持ち堪えられないものであることは,少し専門数学をかじった者ならわかる。 <数は量の抽象>がずっと続いているのは,これがイデオロギーだからである。

    イデオロギーのイデオロギーたる所以は,「引っ込みがつかない!」と<己のアイデンティティーの拠り所>がこれを持続させているメカニズムだということである。


    <数は量の抽象>は,遠山啓がつくり出した論である。 このとき遠山は,「現行に対立軸を立てる」を自分に課す者であった。
    対立軸を立てるというスタンスは,必ず無理をさせる。
    無理は,後になって「思いつきでやってしまった!」と後悔するものを,そのときは「これだ!」と思わせる。
    遠山はこの無理をやってしまう。
    そして間もなく,「やってしまった!」を自ら認めることになる。
    しかし,「これが正しい思想だ!」をさんざ言ってきた。 論争をやって,自分が正しく相手が間違っていると言ってきた。 そして組織も,自分をすっかり指導者に立てて既に固まり,権力との対決を進めている。
    いまさら引っ込みがつかない!

    <数は量の抽象>を怪しく思うようになるのは,組織の幹部クラスにも当然ある。 しかし,「いまさら引っ込みがつかない!

    一般組織員 (現職教員) で<数は量の抽象>を怪しく思うようになってきた者も,「学校権力」とわたり合っている経緯から,「いまさら引っ込みがつかない!

    そして,イデオロギーは,己のアイデンティティーを形成する。 アイデンティティーを壊さないために,無意識はイデオロギーを保持させる。

    こうして,<数は量の抽象>はずっと続くことになる。


    <数は量の抽象>については,数学教育界ではこれを論ずることが一種タブー視されているところがある。 どうしてこうなるかというと,<数は量の抽象>を論ずることがイデオロギーを論ずることであり,そしてこれが「引っ込みがつかない」とか<アイデンティティー>とか人の痛いところを敢えて突っつくような格好になってしまうからである。

    しかし,「引っ込みがつかない」は,周りを「一億玉砕」に導く。
    そして,この「一億」の中には,学校の生徒も入ってくる。
    こういうわけで,学校教育を考えるときは,「タブーを眼中にしてなどいられない」も必要なことになってくるのである。