Up イデオロギーは「かけ算の順序」を存在論にする  


    <数は量の抽象>のイデオロギーが「かけ算の順序」の問題を立てるときは,「かけ算の順序」は存在論にされる。 そして,「かけ算の順序」の存在論は,数学ではない。

    数学は,ルールの体系化を営みとする規範学である。 使用する言語を文法の明確な言語として定め,理論生成の核にするルールを定め,「含意」のルールを定め,核のルールを起点にして含意の導出作業を開始する。
    存在 (対象) も,自分の中でつくる。

    数学の命題は,つぎの形をしている:
      もしこのような存在があれば,それはこうなっている。
    数学が存在を自分の中でつくるのは,存在の雛形 (「普遍対象」) をつくるためである。
    すなわち,普遍対象としてつくった存在は,つぎの形の命題をつくるのに使われる:
      この存在と同型の存在は,こうなっている。

    「この存在と同型の存在」という言い方が使えることは,「このような存在」の言い方を著しくラクにする。 (「人」を使わないで「人と同じ形のもの」を言おうとしたらどうなるかを,想像されたい。)

    数学が自分でつくったものでない存在は,数学の対象ではない。
    例えば,「長さ」「重さ」「時間」「速さ」等の日常語で「量」と呼んでいるものは,数学の対象ではない
    数学の対象である「量」は,つぎのものである:
      1. 数学が自らつくった数の系 (数, +, ×) を素材にして,
    2.「量」の普遍対象として系 ((数, +), ×, (数, +, ×)) をつくり,
    3. これと同型なもののことを「量」と呼ぶ。


    数学が自らつくったものだけが数学の存在であるということは,よく理解されていない。 これは数学を考えるときの重要な点なので,強調しておく。
    実際,数学は自分で存在をつくるので,特に,哲学的存在論 (イデオロギー) の雑音から離れていられるのである。 ──例えば,つぎのことをよくよく確認されたい:《数学の命題は,これに対して「賛成・反対」の立場が現れてくるようなものではない。》