Up 日常感覚で話題にする──内容を数学と思わない  


    「かけ算の順序」論議/論争では,「順序」を日常感覚で論じる。
    これは,つぎのことを示している:
      順序は,日常感覚で論じて十分」と,無意識に思われている。
    論じている主題は数学なのだが,これが数学であるという意識がない。

    実際,日常感覚で論じられると思っていられるから,自由な議論ができるわけである。 「これは数学である」と言う者が出てきたら,みんな「その数学は,どうもわたしのやったことのないもののようだ」になってしまい,議論がやりにくくなってしまう。

    数学は,日常感覚とひどく違う。
    日常感覚でアタリマエのことが,数学ではすごく複雑なことになって,数学の本にすればずっと後の方に出てくる内容になる。

    例えば,日常感覚は簡単に「リンゴを2行3列に並べる」と言う。そして「これが2×3の形だ」なんて言ったりする。
    しかし,「2行3列に並べた形」は,数学の「2×3」の意味にはならない。 実際,数学が「2×3」を「2行3列に並べた形」で定義するとなったら,ひどく大きな道具立てが必要になってくる。 例えば,「2行3列に並べる」を行う空間を導入しなければならない。 このときどういうことが要件になるかを探り,要件を備えた空間を定める。そして,「2行3列に並べる」を数学的表現に置き換える。

    もちろん,数学はこんなことはやらない。 こういう複雑なことをやり終えたところから「2×3」を導入したら,それは必ず論理の後先(あとさき)をひっくり返した循環論法になっている。 ──「循環論法」というのは,《「2行3列に並べる」を数学にしたときは,その概念構築の過程のどこかで「×」を含むぐあいになっている》ということである。