Up 数学の「なぜ」が専門性であることの理解 作成: 2011-09-17
更新: 2012-01-08


    「かけ算の順序」論争は,つぎの二つの立場の間の論争である:
    1. 積の二数は,「1あたり量 × いくつ分」の順序で並べねばならない。
    2. 積の二数の順序は,ない。

    「1あたりいくつ × いくつ」は,遠山主義である。
    「かけ算の順序」のイデオロギー)

    「かけ算の順序はない」を言う者は,積の立式を自明としている者である。 すなわち,
      「一皿リンゴ2個が3皿なら,全部でいくつ?」
      「タテ2cm ヨコ3cm の長方形の面積は?」
      「時速2kim で3時間ならどれだけ進む?」
    に対する「2×3」の立式を,「なぜ '×' なのか?」の問いをもたずに,やってしまう者である。
    これは,数学におけるモンスターである。

    学校数学では,「なぜ」抜きで立式できる子が「できる子」になる。
    子どものとき「できる子」であり,そしてそのまま大人になっていれば,「2×3」の立式を「なぜ '×' なのか?」の問いをもたずにやる者になっている。
    かれらは,《この問題にはかけ算を立式する》がアタマに入っていて,理屈ではなく形式感覚でかけ算を立式する。
    このような大人が,「かけ算の順序はない」を言う。
    これは,識者・学者であっても変わりはない。


    実際には,「2×3」の立式を「なぜ '×' なのか?」の理由を以て行うとき,二数にはきちんと順序がつく
    ( かけ算の順序の数学,§ 問題の論理的還元)

    「かけ算の順序はない」を言う者は,ほんとうは,つぎのように言っているのである:
    「積の立式は自明であり,考えることではない。
     実際,わたしは '×' の意味は何か?など,考えたことがない。
     そしてこれまで,ずっとうまくやってきている。
     わたしを見よ。」

    数学から見れば,遠山主義も「積の立式は自明であり考えることではない」も大差ない。 すなわち,数学を見ないようにしている点では同じである。
    そしてこの意味で,かれらは学校数学にとって困った存在になる。
    両者は,学校数学を数学から考えようとせず,自分の<思いつき>で引っ張っていこうとする。


    「なぜ 」の問いを,自明と思ってはならない。
    「なぜ」の問いを立てられることは,一つの専門性である。
    学校数学の内容について,ふつうの者は「なぜ」の問いを立てられない。

    こういうわけで,ひとが学校数学の内容を論ずるとき,そこには「なぜ」がない。
    それは,<思いつき>の主張になる。
    ひとの<個の多様性>に応じて,多様な<思いつき>がそれぞれ主張し合うふうになる。
    議論/論争が延々と続けられる模様になるわけである。