Up 「数は量の抽象」の遠山の言説  


    「量は数の抽象」の論は,つぎを基調とする:

      量が,自体的に存在している。
      数は,量の抽象である。
      ──特に,数の +,× は量の +,× の抽象である。
       註 : 「量は数の抽象」の立場では,量と量の × があり,これが第三の量をつくる。

    このことを述べている遠山のことばを,いくつか引いてみる:

    がんらい分数×分数は,連続量×連続量の抽象化なのである。([1], p.30)

    私は分数を直接的に具体的な連続量(長さ,重さ,体積など)につながるものと考えたい ([1], p.30)

    単位や測定のまえにも連続量は存在している‥‥このようにまだ測定されていない生の連続量を「未測量」とよぶことにしよう。‥‥測定ということは,連続量を単位に分割することであるから,もはや純粋な連続量ではなく,分離量の仮面をかぶった連続量なのである。‥‥量の分数理論の基礎にあるのは,種々さまざまの仮面ではなく唯一無二の量の素顔を見ようとする考え方である。したがって乗法そのものも,そのような未測量のあいだにある客観的な自然法則もしくは社会法則から抽出されたものとみるのである。([2], p.73)

    分離量は数え,連続量は測るのであるが,数えるまえから分離量は存在し,測るまえから連続量は存在している。([3], p.26)

    二本の棒をつなぐとより長い棒ができる。この事実は物指しができるまえから存在している事実であり,つまり未測量のあいだに成り立っているのである。このような法則を未測法則とよぶことにしよう。これを既測量に直すと 25cm+17cm というような方式がでてくるのである。
    乗法や除法についてもやはり同じである。速度×時間=距離という法則は未測量のあいだにも成立している。「これだけの速さで,これだけの時間走ったら,これだけの距離だけ走る」という事実は物指しや時間や速度計以前に存在している。それを既測量に直すと既測量のあいだの乗法になるのである。 ([3], pp.26, 27)

    分数×分数や小数×小数,分数÷分数,小数÷小数は本質的には連続量×連続量,連続量÷連続量の抽象的表現‥‥このような異種の量の乗除によって第三の量がつくり出されるわけである。([4], p.72)

    量の分数は,分数を関係や操作から一応独立な実態概念としてとらえるので +2/3 と ×2/3 とを使いわける必要はなく,それを単一な2/3としてとらえるので,アイマイサは何もない。+2/3 と ×2/3 のちがいは量の体系のなかで正確に位置づけられているので混同は起こらない。加法的な外延量と乗法的な内包量がはっきり区別されているからである。‥‥量の体系からいうと加法群は外延量の抽象的な表現であり,乗法群は内包量の表現として理解される。([5], p.5)

    もともと割合分数には実数の二重構造(加法群と乗法群)に対する正しい把握がない。量の体系からいうと加法群は外延量の抽象的な表現であり,乗法群は内包量の表現として理解される。したがって加減乗除を一まとめにして四則と呼ぶよりは加減と乗除というわけ方をとる。だから乗法を加法のくりかえしとしてではなく,はじめは乗法を独立の演算,つまり量×量として導入することになる。([5], pp.5,6)



    引用文献 (著者はすべて遠山啓):
    [1] 量の問題について,数学教室, No.44 (1958, 8), pp.29-38
    [2] 教師のための数学入門 VI,数学教室, No.52 (1959, 3), pp.68-75
    [3] 量について,数学教室, No.55 (1959, 6), pp.24-27
    [4] 量の系統,算数教育, No.6 (1959, 9), pp.69-78
    [5] 量ではじめるか,割合ではじめるか──量の分数について,算数教育, No.28 (1961, 6), pp.1-8