Up | 要 旨 | 作成: 2013-03-07 更新: 2013-03-07 |
大学教員は,授業力があってこの職についているというわけではない。 大学教員は,自分の担当科目で授業経験を積み,授業力をつけていくことになる。 この経験は,閉じたものであり,授業力が適正に育っていくことは,期待できない。 ここに,「大学教員の授業力陶冶」(「FD」) が課題化される。 しかし,この課題に取り組む役に就く者もまた,大学教員である。 彼らは,「できない」がわからない者であり,したがって「できない」に対し処方を立てることのできない者である。 実際,彼らは,「大学教員の授業力陶冶」を「研修イベントの実施」のことにする。 また彼らは,「研修」の形態を,自分の授業とまったく同形に思い描くのみである。 すなわち,講演者やパネラーによる「講義」にする。 大学は,DPを立てる。 DPを実現するものは,教員の授業である。 こうして,DPを立てることはFDを立てることである。 翻って,FDが成らなければ,DPは空文句である。 FDが成っていないのは,DPに偽りありということである。 そして現前の大学は,FDが成る情勢にない。 |