Up 《「わかる・できる」はカラダづくり》がわからない 作成: 2013-03-08
更新: 2013-03-08


    「わかる・できる」は,「わかる・できる」のカラダがつくられているということである。
    「わからない・できない」は,「わかる・できる」のカラダがつくられていないということである。

    「わからない・できない」を「わかる・できる」にするのが,勉強である。
    勉強は,「わかる・できる」のカラダをつくるプロセスのことである。

    カラダづくりは,時間がかかる。
    いまの自分には「単純・簡単・アタリマエ」に見えることも,これが「単純・簡単・アタリマエ」に見えるカラダをつくるのに,たいへんな時間をかけてきているのである。

    授業の素人である大学教員は,このことがわからない。
    彼らが講義を授業の形にしているのは,話すこと・板書することは,その分だけ生徒に伝わること・生徒が学習することだと思っているからである。
    実際には,話・板書は,生徒を素通りしている。
    生徒には何もはいっていない。

    そして,期末試験を行って,教員は生徒がぜんぜんできないのを見る。
    そして,このことを生徒のアタマのせいにする。

    この場合だれがアタマが悪いかといえば,教員の方である。
    教員をやっていて学生のアタマが悪いを言えば,その「アタマが悪い」はそっくり教員に返ってくるわけである。
    しかし授業の素人である大学教員は,この道理も当然わからないものになる。