Up | 要 旨 | 作成: 2009-12-11 更新: 2013-03-09 |
授業時間を自分のできるもの (得意なもの) で埋めることになる。 授業を,学生本位ではなく自分本位でつくっているわけである。 大学教員は,講義 (<伝える>) を授業の形にする。 理由は,教員の授業力である。 <伝える>は,相手不在でできることであり,授業力を要せず授業の形をつくれる方法である。 そして,講義を授業形態とする大学教員は,《伝えることは,その分だけ生徒に伝わること》と思っている者である。 ──実際には,<伝える>は,生徒を素通りしている。 生徒には何もはいっていない。 どうして《伝えることは,その分だけ生徒に伝わること》になるのか? 生徒を自分のコピーにしているのである。 自分のことは自分に伝わるわけであるから,《伝えることは,その分だけ生徒に伝わること》になる。 《自分自身に伝える》が,大学教員の授業になる 大学教員は,授業で最も重要な《学生に主題の<世界>をもたせる》をしない。 学生は,自分がどこにいるのかわからない場所から,授業を開始される。 そして,以後ずっと,自分がどこにいるのかわからないでいる。 《学生に主題の<世界>をもたせる》は,なぜ行われないのか? 「相手に<世界>をもたせる」という概念をもっていないというのが,理由の一つである。 そして,自分自身<世界>をもっていないというのが,もう一つのあり得る理由である。 「わかる・できる」の実現は,カラダづくりであり,つまらないことの繰り返し,同じことの繰り返しが必要になる。 そして,時間がかかる。 「わかる・できる」のわからない者は,これを無駄と思ってしまう。 さらに,効率化を考える方へと進んでしまう。 大学教員は,これである。 |