Up | 「世界をわからせる」の概念をもたない | 作成: 2009-12-11 更新: 2009-12-11 |
相手の知っていることから段々に降って/昇ってその内容に至るように,話を構成する。 このアタリマエのことが,専門数学の授業では行われない。 相手の知っていることから段々に降る/昇るということをやらないのである。 学生は,自分がどこにいるのかわからない場所から,授業を開始される。 そして,以後ずっと,自分がどこにいるのかわからないでいる。 なぜこうなるのか? 授業者が,「相手の知っていることから段々に降る/昇る」ということを知らないからである。 授業者は,学生の<自分がどこにいるのかわからない>状態を理解できない。 そこで,わかってもわからなくてもお構いなしの授業を続けるのみとなる。 学生に自分がどこにいるのかをわからせるとは,学生に主題の<世界>をもたせるということである。 <世界>を持てることで,その中の話についていける。 「話をきいているうちに,だんだんと<世界>が見えてくる」調の授業には,ついていける者はいない。 学習は,<世界>を持つこととその中の話がわかることが,スパイラルに循環し上昇するようになっている。 専門数学の授業では,学生に主題の<世界>をもたせるということが,なぜ行われないのか? 「相手に<世界>をもたせる」という概念をもっていないというのが,理由の一つである。 そして,自分自身<世界>をもっていないというのが,もう一つのあり得る理由である。 自分自身<世界>をもたずに授業するというのは,あり得ることなのか? むしろ,これの方がアタリマエである。 実際,学校教員で数学を授業する者は,ほとんどがこのようである。 <世界>とは,「なに・なぜ」の問いで問われるものである。 この「なに・なぜ」は,存在論の「なに・なぜ」である。 これは,ひとの生活の中にはふつう入ってこない。 ひとは,「なに・なぜ」を閑却して生活する。 学校教員で数学を授業する者も,「なに・なぜ」を閑却した授業をする──「いかに」が専らの授業をする。 もし「○○とは何か?」の形の問いを生徒から受ければ,しどろもどろになる。 学生が<世界>をもたされない授業を受けるとき,学生に二つのタイプが顕れる。 <世界>をもてなくてブレイク・ダウンしてしまう者と,<世界>がなくても流せてしまえる者である。 後者を「できる学生」と謂う。 この「できる学生」が専門数学教員になって授業したら,<世界>のない授業をする。 そしてこの授業では,ほとんどの学生が,「<世界>をもてない」の理由でブレイク・ダウンする。 |