Up | 要 旨 | 作成: 2013-03-11 更新: 2013-03-11 |
「わからない・できない」は,「わかる・できる」のカラダがつくられていないということである。 授業は,学生に「わかる・できる」のカラダをつくらせることをする。 カラダづくりは,つねにジタバタ・モタモタであり,時間がかかる。 授業力のない大学教員は,このことがわからない。 大学教員は,専門性でこの職を得ている。 授業力で得ているのではない。 「大学教員」には,もともと「授業力」の含意はない。 大学教員は,「教える」がわからない者である。 授業力のない教員は,自分のできることをやって,それを「授業」とする他ない。 授業時間を自分のできるもの (得意なもの) で埋めることになる。 授業を,学生本位ではなく自分本位でつくっているわけである。 大学教員は,講義 (<伝える>) を授業の形にする。 これは,生徒を自分のコピーにして,《自分自身に伝える》をやるものになる。 自分のことは自分に伝わるわけであるから,授業は《伝えることは,その分だけ生徒に伝わること》調になる。 教員はベスト・エフォートで授業している。 この《自分のベストでやっている》は,「自分のやっていることがベストだ」に転じる。 大学教員は,自分の授業力を疑わない。 事実は,大学教員は授業ができていない。 授業ができていないことは,「わからない・できない生徒」に現れる。 自分の授業力を疑わない大学教員は,「自分の授業でわからない・できない生徒」の原因を,自分の外に立てる者になる。 即ち,学生や課程のせいにする。 授業力のない大学教員は,自分の担当科目で授業経験を積み,授業力をつけていくことになる。 この経験は,閉じたものであり,授業力が適正に育っていくことは,期待できない。 ここに,「大学教員の授業力陶冶」(「FD」) が課題化される。 しかし,この課題に取り組む役に就く者もまた,大学教員である。 彼らは,「できない」がわからない者であり,したがって「できない」に対し処方を立てることのできない者である。 2. 専門数学の授業・ゼミ 学校教員養成課程の専門数学は,<学校教員の資質・能力として必要な数学の力>を学生に持たせることが役割である。 そしてこの力は,端的に,<学校数学の数学>を捉える力である。 専門数学科目は,<学校数学の数学>を教えるためのものである。 教員養成課程の専門数学教員は,経歴において理学部の専門数学教員と変わるところはない。 教員は,授業力に難がある。 教員は,「伝える=伝わる」で授業でをやってしまう者である。 土台構築の局面を,「伝える」でやってしまい,土台構築をすっとばす。 また,意味を分からせる授業をやらない。 専門数学科目は,意味が分かっていないで証明や計算をする学生をつくることになる。 授業がこういうふうであるから,学生は,必修および免許の要件の単位数に達したら,そこで履修をやめる。 こうして,学生は数学の力が身につかないまま課程を終える。 そこで,教員にはFDが課題になる。 このとき,大学教員はFDを制度の話にする。 しかし,FDは制度で成るものではない。しかも,制度の話にすることは,<やっていない・できていない>を隠蔽することである。 FDは,アリバイづくりないしイベントとして終わってしまう。 また,FDには,専門数学教員のストレスになるという問題もある。 3. 数学教育の授業・ゼミ 数学教育の授業・ゼミの役割は,学生を<算数・数学科の授業を担当してよい者>へと変容させることである。 これの実現の仕方として行うものは,大きくカテゴライズしてつぎの3つである:
数学教育の授業・ゼミはこのような役割をもっているが,これの担当教員にはタイプの違いがある。 この違いは教員のバックグラウンドの違いによるところが大きい。 教員のバックグラウンドは,つぎのようにカテゴライズされる:
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