Up ストレスの問題 作成: 2010-07-30
更新: 2010-07-30


    FDは,そのスタートのところで頓挫する。 FDの課題化に対する教員のストレスが,問題化するからである。

    FDの企画では,つぎの思い込みがある:
      人は,プッシュされると,プッシュされた方向に動く。
    しかし,つぎのようにもなる:
      人は,プッシュされると,ダウンする。
    実際,これが現れる。
    そしてこのとき,FDの企画者は「人は,プッシュされると,プッシュされた方向に動く」の思い込みに気づくことになる。


    FDが数学専門教員のストレスになる理由は?

    授業としておもてに見えるものはパフォーマンスであるが,このパフォーマンスは,授業する主題のとらえとか,授業構成とか,全体ストーリーの構成とかの上に乗っかるようにしてある。
    この全体があって,授業になる。
    そして,このようなものとしての授業を行うことは,専門性である。

    専門性をつける方法は,その専門性の修行である。
    数学専門教員は,授業の専門性の修行をして教員になっているわけではない。 彼らが授業の専門性をつけようとすれば,教員養成系の学生が授業の専門性をつけるために行っていることを,やらねばならない。 経験が近道をつくることはあっても,それで修行が簡単なものになるというわけではない。
    数学専門教員にとって,FDは,新しい専門性への入門である。

    カラダは不器用で,融通が利かない。 新しい専門性に入っていくことは,多くの時間を要し,苦労が多い。
    そこで,外圧がこれを急がせるとき,ひとはブレークダウンする。
    そしてFDは,数学専門教員にとって,このようなものになる。


    FDは,数学専門教員のストレスになる。
    このストレスに耐えられない者がすぐに出て,FDはその開始時点で頓挫する。

    このことは,特に,FDが意識/やる気の問題ではないことを示す。
    数学専門教員は,FDに向かう意識/やる気がないのではなく,FDに向かう力が弱いのである。 その弱さを突かれると,ストレスの症状が現れてしまう。

    そこで,弱さを突いてしまうようなことは,ストレスに陥らせることになるので,避けることになる。 結果,教員養成課程の専門数学は,数学専門教員の好きにやらせるというふうになる。
    この構造に事態好転の契機を見いだすことは,できない。