Up 「授業能力の低さ」の問題構造がわかっていない 作成: 2008-03-05
更新: 2008-03-05


    パフォーマンスは,アタマから生成される。
    出来の良くないアタマから良いパフォーマンスは生まれて来ない。
    子どものアタマでいくらがんばっても,<児戯>にしかならない。

    そこで,つぎが教員養成教育のモデルになる:



    これに対し,体系バラバラ主義は,教員養成教育をつぎの形にする ( 事例:北海道教育大学札幌校):


    この場合,学生は,<子どものアタマのまんま>にされる。
    そして,この学生が,<子どものアタマのまんま>の教員になる。


    教員養成課程の専門科目の授業は,昔からずっと,うまくいっていない。
    すなわち,学生の<子どものアタマのまんま>を,たいして改善できていない。
    現に,現職学校教員の教科専門性は,<子どものアタマのまんま>程度である。
    この状況の改善は,あくまでも「専門科目の授業の改善」として取り組まれるものである。
    しかし,体系バラバラ主義者は,このことを理解できない。

    そもそも,体系バラバラ主義者はつぎのような考え方はしない:
      学校現場での<子どものアタマのまんま>教師の拙い授業の原因は,<子どものアタマのまんま>にある。
    つぎのような考え方をする:
      学校教員の授業能力の低さは,授業パフォーマンスを訓練すれば解決される問題だ!
    そこで,
      教員養成課程は,授業パフォーマンスを訓練する科目に重点をおかねばならない!
    となり,上の体系バラバラ主義の教育モデルの図のようになるわけである。


    教育の問題解決は,問題解決の本道を地道に進むしかない。
    近道はない。
    しかし,このロジックを理解している者は,教員養成課程の教員でもどれ程いることやら?
    現に,体系バラバラ主義が問題解決の方法になるとして教員養成課程の再編成をやっているのは,他ならぬ教員養成課程の教員自身である。