Up 修行の等価性 作成: 2012-04-20
更新: 2012-04-20


    「修行は一事の修行」モデルでは,「修業の選択」を考えることになり,そこで「修業の価値」を考えることになる。

    数学とけん玉だと,数学の方が価値が上。
    本当か?
    けん玉は,スポーツの個人種目に通じる。
    そして,数学とスポーツを比べれば,「価値は同じ」と言いたくなる。
    数学の修業と重量挙げの修業は,等価である。
    数学の修業とハンマー投げの修業は,等価である。
    ならば,数学の修業とけん玉の修業は,等価でなければならない。

    数学の修業とけん玉の修業は,等価。
    本当か?
    そもそも「修業は等価」と言ってよいのか?
    そもそも「修業は等価」の意味は何か?


    「修行は一事の修行である」と定めるとき,修業は交換可能としなければならない。 よって,修業は等価としなければならない。
    これは,「個の多様性」を以て個を等価とする論理と,同じである。
    個は,採択において交換可能でなければならず,したがって等価である。
    修業は,採択において交換可能でなければならず,したがって等価である。

    この「等価」は,交換価値の等価である。
    「等価」のロジックの要点は,使用価値と交換価値の区別である。
    さて,このロジックはだいじょうぶか?

    交換価値は,物々交換で定まるのではない。 貨幣の導入で,交換価値の概念が立ち,交換価値が定まる。
    「個の等価」「修業の等価」の場合,「貨幣」となるものが存在しない。 「個の等価」「修業の等価」は幻想である。 そして,この幻想をつくるものは,思考停止である。

    本論考は,「修業の価値」を論ずることになる。
    本論考は,この論に思考停止を持ち込まないことを,要点とする。