Up <形式>の論述が課題に 作成: 2012-09-03
更新: 2012-11-17


    本論考は,学校数学の「何でもあり」の現前から,「数学の勉強」の意味として「形式陶冶」を導いた。 この推理は,専らロジックの運用である。 「形式陶冶」「形式」の内容には触れていない。
    そこでここから,「形式陶冶」「形式」の論述を課題にしていくことになる。

    「形式陶冶」「形式」の論述の形は,「数学の勉強によって,個はどのように変容するか?」である。
    さらに本論考の立場では,これを「堆積と風化」で論じることになる。

     註 : 「堆積と風化」は,「形式」に「一般」の意味を見ない。
    この点を除けば,「堆積と風化」は「一般陶冶」論と通じる:
      《陶冶による獲得形質は,陶冶の個々の経験の累積ではない。
       個々の経験は,次元の異なるもの (「一般」) に転換する。》


    「個」の論述は,「傾向性/カラダ」の論述にかえられる。
    「傾向性/カラダ」の論述は,ありとあらゆるものが「傾向性/カラダ」の内容になってくる。
    例えば,「世界認識」というときの「世界」。
    「数学の勉強」も,「世界」の概念形成の契機の一つに考えられてくる。 そこで,「数学の勉強がつくる傾向性/カラダ」の内容として「世界」の概念形成も挙げられる,という具合になる。

    傾向性/カラダの表現は,ことばを用いて行うことになる。 しかし,この表現では,傾向性/カラダとことばの両方の側で,不足と過剰が起こる。 そこで,この表現は,不足と過剰を埋める内的作業を表現者と表現の受け手双方に求めるものになる。
    例えば,「数学の勉強」の意味として「世界」の概念形成を挙げるとき,「世界」ということばのこのときの読み方ができる知性および感性が当て込まれているわけである。
    傾向性/カラダの表現は,ことばの論理的使用ではなく,「理性的な感性的」使用──いってみれば詩的使用──である。

    傾向性/カラダの表現は,これがことばの「理性的感性的」使用になることを踏まえた上で,既成のことばの中からのことばのピックアップ──すなわち,傾向性/カラダの様を表すことばを辞書から拾っていく──を作業の単純形にしていく。
    これは表象主義の体(てい)であるが,表象主義に即くということではない。 ことばを操る営みは表象主義を形とするしかないわけであるから,確信犯的にこの形を行う,ということである。

    傾向性/カラダを表すことばは,傾向性/カラダ獲得の言い方「○○を知る/感得する」「○○がわかる」「○○ができる」の「○○」で代用するのが簡単である。
    「○○」の取り出しは,<カテゴリー> × <総合・分析>のマトリクスが拡大する格好で,際限のない/ 収拾のつかないものになる:

       勉強,教師・生徒,修業,鍛錬,道,学問,
    困難,我慢・忍耐,転機,打開・突破,達成,
    謙虚,独自,主体性,
    時間,経験,素人・達人,形(かた),境地,安心,
    意識,注意,観察・読解,試行,計算,推理,探求,
    説明,明証,命題,前提・所与,含意,証明,結論,
    論証,論理,推論体系,言語,数学,
    形・同型,構造,形式,対応,
    身体・生命・生活,社会,調整,均衡,
    自他,自我,存在,世界,認識,
    表現,思想,哲学,
    ‥‥

    こういうわけで,「数学の勉強」の意味の論考は,「傾向性/カラダ」の言語表現を最終的課題にしていくものになる。