Up 展望 :「方便」論 作成: 2012-08-24
更新: 2012-09-03


    本論考は,「学校数学は何でもあり」を定立する方法の論考である。
    そしてこの先に展望しているものが,「学校数学は方便」の定立である。
    実際,「学校数学は方便」に進むための前作業が,本論考の位置づけになる。

    なぜ,「学校数学は方便」が進む先なのか?
    わたしは,「数学の勉強は何のため?」の問いに「使わないが勉強は必要」で応ずる論を考えることにした。 さらに,その「勉強」を「数学の勉強」とすることはできないとした。
    このとき,「数学」は,勉強の方便ということになる。 実際,「数学の勉強」でない勉強で「数学」を称するのは,「数学」を勉強の方便として用いていることになる。
    こうして,「「数学の勉強」は措定できない」と「使わないが勉強は必要」を合わせる論は,「方便」論になる。

    「方便」論の方法論を理解する上で,「一般陶冶」論および「数学」論との比較対照が役にたつ。

    「一般陶冶」論は,「実質陶冶 -対- 一般陶冶」論である。 「実質陶冶 -対- 一般陶冶」は,同じ「数学の勉強」の上の 「使う- 対- 使わない」の対立である。
    「一般陶冶」は,「数学の勉強は,勉強した数学を使わないが,必要」の立論である。
    これは「使わないが勉強は必要」の論形になるが,「方便」論と異なるのは,「一般陶冶」論は「数学の勉強」をまさしく数学の勉強として措定する。 まさしく数学の勉強であることを,その勉強が一般陶冶になる条件にするからである。

    「数学」論は,「数学 -対- 数学」論である。 「数学 -対- 数学」は,学ぶことになるものを数学とするか数学としないかの対立である。
    「数学」は,「ほんとうに学ぶことになるものは数学ではなく,数学はこの学習の手段」の立論である。
    「方便」論も「ほんとうに学ぶことになるものは数学ではない」であるが,「数学」論が「数学」をいうときの「数学」は,数学である。 これに対し「方便」論の方は,数学も無くする。