Up <人>論から始まる 作成: 2009-04-24
更新: 2009-09-10


    「役に立つ」は,「何に・どんなふうに役に立つ」を言わねばならない。
    「何に・どんなふうに」は,人とカブトムシでは違ってくる。 よって,数学教育の<なに・なぜ>の論考は,本来,<人>の意味から起こすことになる。

    実際,学校数学の<役に立つ/立たない>がどのように論じられるかは,<人>の意味についてどのような哲学が持たれているかに依存する。
    <人>が単純に考えられていれば,<役に立つ/立たない>の論も単純なものになる。 <人>が複雑・不可知なものととらえられていれば,<役に立つ/立たない>も複雑・不可知なこととして論じられることになる。


    <人>のとらえでは,つぎの2つの観点 (相反する観点) がいっしょに用いられる:
      1. 主体
      2. 囚われているもの

    ここで,「囚われている」の意味は:
       人は,自分では自由・主体的でいると思っていても,なんらかの型に囚われている。 自由・主体的でいる部分よりも囚われている部分の方が,圧倒的に大きい。

    「囚われている」が内省的に論考されるとき,それは一つの哲学になる。 人間を「ポリス的生き物」と述べたアリストテレス (『国家』) や主知主義批判のカント (『純粋理性批判』) も,この哲学の流れの一契機と位置づけることができる。

    異文化と遭うとき,反照的に自分の「囚われている」を発見する。 文化人類学はこのようにして起こり,さまざまな「囚われている」(「共同体」) を発見し,改めて<人間>とは何かを探究する。 そしてこの知見から,「人=社会的生き物」が科学的事実になる。
    Dewey の『Democracy and Education』の第一章は,「人=社会的生き物」の論理的含意として「教育」を導こうとする論考である。


    人は,社会的生き物である。
    これの意味は,「人は社会をつくる」ではなくて,「人の条件 (規定性) の中には,<社会的>が入っている」ということ。

    <社会的>を実現しているものは,同じ経験の蓄積である。 (この「同じ経験の蓄積」には,「同じ経験蓄積を系統的に受け渡す」が含まれる。)

      人は,いろいろな経験をして,<外・自分>をつくる。 そして,経験の多様性が,<外・自分>の多様性 (「個の多様性」) をつくる。
      このとき,「異なる経験をすることによって異なる<外・自分>がつくられる」よりも,「同じ経験をすることによって同じ<外・自分>がつくられる」の方が,圧倒的に大きい。 この「同じ<外・自分>」が,「社会的」の意味である。

    同じ経験になるのは,どうしてか?
    「同じ経験を誘導する力学場」──これが「社会」であるからだ。
    メンバーは,同じ経験をするように誘導される。
    同じ経験を誘導しているものとは?
    生活環境,生活様式,文化・風土,人間関係,教育,等々である。

    この一つに学校数学がある。
    そこで,学校数学の<役に立つ/立たない>の論考は,「<人=社会成員>の実現に学校数学がどのように関わるか?」の問いを立てるものになる。