Up はじめに──本論考の目的 作成: 2010-07-14
更新: 2011-08-13


    学校数学の<役に立つ>の論述は,自ずと表象主義になる。 ことばの本性により,こうなってしまう。
    そして,表象主義の<役に立つ>は,道具主義になる。 「道具を与える」が「教育」のメタファになる。

    この道具主義に,教育目的論が加わる。
    社会をリードするものが,教育もリードする。 それは,経済主義である。
    経済主義の考える教育は,競争力陶冶である。 今日では,その競争力は「グローバル社会で勝ち抜いていく競争力」である。
    「数学的リテラシー」は,この競争力陶冶を謳うものである。 それは,OECD PISA の経済主義と連携している。

    「教育」のメタファとしての「道具を与える」は,
      この道具は使うことがあるのか?
    が返されると,たちまち弱い立場になる。 実際,学校数学に対する「役に立たない」の議論は,道具主義が土俵である。
    また,競争主義の方は,
      競争力が,教育の考える<個の自己実現>の形なのか?
      競争力陶冶の実現するものが,競争力なのか?
    の異論を呼び込むことになる。

    本論考は,学校数学を,単純に「よいカラダづくり」で考える。
    特にこのことで,道具主義・競争力主義を退ける。
    この「よいカラダづくり」は,「道具をもたせる」でも「競争力をつける」でもない。 「競争力」にしても,それは「よいカラダ」の含蓄というものである。


    「道具」は,表象主義がひとにつくらせる像である。
    問題解決は,内なる道具の使用なんかにはなっていない。 問題解決で起こっていることは,カラダの自動反応である。 この自動反応を「道具の使用」のように見てしまうのは,表象主義を自分の眼にしてしまっているからである。
    道具主義は,自分が自分を喰むウロボロスの絵図になる。実際,道具は自分に属する。そしてこれを使う<自分>がいる。 表象主義で認知をやれば,必ずこのようになる。
    しかしカラダは,つねに「自分は一つ」である。

    学校数学の<役に立つ>は,道具の<役に立つ>ではない。
    学校数学は,カラダをつくる。 「よいカラダをつくる」が,学校数学の<役に立つ>である。
    「カラダをつくる」が「教育」のメタファになる。
    この立場を,道具主義に対してカラダ主義と仮に呼んでおく。


    本論考は,学校数学の<役に立つ>をカラダ主義で論述することを課題に立てる。 そして,この論述を試行する。

    目指すところは,カラダ主義の論述に成功することである。 しかし,これが決定的に困難であることも,知っているわけである。
    ──困難は,構造的困難である。論述は表象主義になる。カラダ主義の論述は,言語行為としては<矛盾>である。