Up 経験主義 作成: 2010-08-05
更新: 2010-08-05


    「数学のカラダ」は,実証することができない。

    では,内省は方法になるか?
    しかし,内省は,<経験>が内省するのである。
    「数学のカラダ」がひとによって内省されるものであったりなかったりするとき,それは「数学のカラダ」の定立の間違いを示しているのか,それとも特殊な経験が「数学のカラダ」を内省できるということを示しているのか?
    「数学のカラダ」が内省されない者は,「数学のカラダ」の定立は間違いであると言うことになる。 「数学のカラダ」が内省された者は,「数学のカラダ」の定立は妥当であると言うことになる。 そして,両者は並行線を保つ。

    並行する両者は,学校数学の<役に立つ>の論で並行する。
    そして,学校数学はどのようであるべきかの論で並行する。

    この並行関係に決着はない。
    経験が違っているからである。

    翻って,「数学のカラダ」論は,決着を求めるものにはならない。
    経験主義に立ち,経験主義の立場を保つのみである。