Up 「共通特性」の察知 作成: 2009-04-23
更新: 2009-09-10


    <役に立つ>の内容は,<数学を勉強した者に共通して現れる特性>として論述することになる:
      数学を学習した者たちには,ある共通特性が現れる。
       その共通特性は<数学的>という言い方で括れるものである。
    個の多様性にしても,「共通」があって,主題として立つ。「共通」の措定が最初である。
    そこで,「共通特性」の論述が課題になる。


    この課題に対し,本論考は最初に「科学的論述」を退ける。
    「科学的」とは,ことばが実体を指すものになるレベルである。 <数学を勉強した者の共通特性>の科学的論述は,「数学的な考え方」「数学的問題解決能力」の論に見るように,ことばにした「考え方・能力」の実体論になってしまう。

    科学的論述は,ことばの含意関係を操るに過ぎない。 実際,ことばの含意関係を操るというやり方で,「共通特性」の論述ができてしまう。
    しかし,この「共通特性」は,<場合依存>が抜けたものになる:
      「論理に強い・論理的に考えようとする・論理的に解決する」の類が「共通特性」になるわけであるが,「論理に強い・論理的に考えようとする・論理的に解決する」の実際はどうかといえば,場合依存である。 ──「数学はいいが,日常的なことはとんとダメ」のような。
    <場合依存>が抜けた「共通特性」は,「共通特性」とは言えない。
    結局:科学的論述でことばになった「共通特性」は,「共通特性」ではない

    「共通特性」をことばにしようとしたら「共通特性」ではなくなるということは,「共通特性」が無いということではない。
    ことばになるとは,実体とことばの間に写像関係が立つということである。 これが表象主義の立場である。 そして,「共通特性」をことばにしようとしたら「共通特性」ではなくなるとは,「共通特性」が無いということではなく,言語写像論・表象主義は成り立たないということである。

    実際,一般にカラダの傾向性がことばになるものでないことは,リアルに脳を考えれば容易に納得される。 そこには,たえず位相変化する神経細胞のネットワークしかない。各位相が「傾向性」の実体になる。 そして,この位相の写像のようには,ことばはつくられていない。


    では,「共通特性」はあると言えるのか?
    そもそも,どうして「共通特性」があると思うのか?
    本論考は,つぎのように言うことにする:
      「共通特性」は<察知>される。
    すなわち,カラダのことである「共通特性」を,カラダは<察知>する。
    ことばはカラダのことをとらえられないが,カラダはカラダのことをとらえられる。
    ──本論考のこの立場は,もちろん「科学的」でない。