Up <目的-手段>論と非<目的-手段>論 作成: 2010-08-15
更新: 2010-08-15


    学校数学の理由づけは,<目的-手段>の形で論ずるのがアタリマエになっている。 《このような目的を達成するために,学校数学が手段として択られる》という枠組で,目的に対し学校数学が手段となる理由および条件が論じられる。

    ここで,アタリマエになっているとは,アタリマエに思われているということである。 そして,「アタリマエと思われている」とは,<目的-手段>の論法に意識が向かうことがないということである。

    学校数学を<目的-手段>の枠組で理由づけようとする論は,「学校数学によってつくられる人材」を論ずる形をとる。 すなわち,出口論になる。

    しかし,<目的-手段>論には,つぎの形の非<目的-手段>論を立てることができる:
    学校数学は,それが手段となってある目的を達成するというものではない──実際,目的は示せない。 この意味で,学校数学は目的をもたない。
    一方,学校数学は,成長にとって必要である。
    「成長」は「目的達成」のことではないというのが,この論の要点である。

    非<目的-手段>論は,<目的-手段>の発想傾向を相対化する。
    非<目的-手段>論のこの機能は,重要である。 なぜなら,<目的-手段>を発想することが圧倒的に優勢であり,それがアタリマエ視されている状況では,これの意識対象化/反省が起こる契機は内部的には存在しないからである。