Up 「数学」の困難と「数学」の困難 作成: 2009-11-28
更新: 2010-08-15


    (1) 「数学」は,数学を示せない (指導課程構築実践の不能)

    出口論の方から学校数学を臨むとき,指導課程が立たない。
    出口論に応ずる指導課程は,実現できない。
    「数学」といっているところの「数学」がつくれない。

    このことは,過去に繰り返されている。
    外観は少しずつ違っていても,本質は変わらない。
    われわれはこのことを知っており,目撃もしている。


    出口論に応ずる指導課程は,実現できない。
    どうしてなのか?
    実現できないことを実現しようとしている。
    これが理由である。
    単純な理由である。

    現前の出口論の方法は,つぎのようである:

    1. ひとの能力・傾向性を,ことばに表す。
      ──そのことばは「○○できる」である。
    2. つぎに「△△を行えば,○○できるようになる」の文型をつくり,「△△」に相当する数学の授業・指導課程を求めようとする。
    3. 「△△」は,言語の内側で求められる。
      例えば,学校数学の人材アウトプットとして「コミュニケーション能力の高い人材」を考えるとき,「コミュニケーションをおこす数学の授業・指導課程」がこのアウトプットを実現するものになる。
    4. そして,「コミュニケーションをおこす数学の授業・指導課程」をいろいろつくっては,試す。

    この方法では,指導課程は実現されない。 数学の授業・指導課程は,「コミュニケーションをおこす数学の授業・指導課程」の類を要素とするものではないからだ。
    逆に,数学の授業・指導課程を保ちつつ,これに「コミュニケーションをおこす数学の授業・指導課程」の類を挿入していこうとするとき,これらは散漫・希薄になる他なく,このときには「△△を行えば,○○できるようになる」の「△△」ではなくなる。


    (2) 「数学」は,理由を示せない (成長の不可知論に)

    「数学」は,学校数学の理由をことばで示せない。
    実際,学校数学の理由は,<成長>である。 そしてこの<成長>を表現することは,ことばの機能を超える。

    しかし,ことばの前で停止することは,不可知論をとることである。
    すなわち,成長を不可知論にすることである。