Up 学校数学の条件──「食物・運動」「無用の用」の含意として 作成: 2010-10-05
更新: 2010-10-05


    本論考は,「食物・運動」「無用の用」を「なぜ学校数学か?」の答えにしようとする。 このとき,「食物・運動」「無用の用」の含意が,学校数学の条件になる。

    カラダづくりでは,よい食物・運動が求められる。
    「よい」の意味は,「よいカラダをつくる」である。
    そこで,「よいカラダ」とは何か?という問題になる。

    出口論は,「よいカラダ」を「よい行為ができるカラダ」に代える。 行為語でカラダを語るわけであるが,これが出口論という方法の要点である。
    ちなみに現前の出口論は商業主義の出口論であるが,「商業主義の出口論」とここで言う意味は,行為語が親経済主義の行為のことばになっているということである。

    さて,「よいカラダ」を「よい行為ができるカラダ」にすると,「よいカラダ」の含蓄が大きく失われる。 カラダの含蓄と比べ,ひとのもつ行為語のレパートリーはひどく貧しい。

    行為語に置き換え得ない「よいカラダ」を専ら考えることにして,「よい食物・運動」としての学校数学はどのようなものか?と考えるとき,「本物」ということばを使いたくなる──「本物の数学」。
    すなわち,論考の方針は,「よいカラダ」の概念を立て,つぎの命題を立てることである:
      「学校数学の本義は,よいカラダをつくることにある。
     よいカラダづくりを本義とする学校数学の方法は,本物の数学をやることである。」

    「本物の数学をやる」とは,数学を論理体系的にやるということである。
    「本物の数学」の要素的主題は,体系の要素的主題ということで,その多くは「無用の用」のことばで意義・役割が説明されるところとなる。