Up 「役に立つ/立たない」の意味を自明にしない 作成: 2009-08-26
更新: 2009-08-26


    数学の勉強は何のため?」の問いに対し,<役に立つ>を言い表そうとすると,みな外れのように思えてくる。
    <役に立つ>は,単純なできごとではない。

    言えば当たり前のつぎの点に,注意しなければならない:
      <役に立つ>は,カラダが実現している。
    このカラダは,成長というプロセスの実現するものである。 とすれば,学校数学の<役に立つ>は「成長に役立つ」の意味でも考えねばならないのでは?
    翻って,「成長に役立つ」以外の「役に立つ」というのは,あるのか?

      「金槌は釘を板に打ちつけるのに役に立つ」は,このように金槌を使えるカラダが実現するものであり,そしてこのカラダの成長に対しては,ある経験が役に立っている。論考は,この<役に立つ>の方に自ずと向かう。


    <役に立つ>がカラダのことになると,<役に立つ>を述べることはできなくなる。 しかし,つぎのように言いたくなる:
    数学の勉強については,個々のプロセスにおいてカラダの中で何が生じているかということは,述べられない。
    しかし,ことばに表すことはできなくとも,数学の勉強はきっと役に立っている。 ──数学の勉強は,ことばに表せない形で,きっと役にたっている。
    学校で数学を教えないということは考えられない,という思いがする。それは,学校数学がきっと必要であるからだ。

    合理主義に立てば,これは無学が言わせることばである。
    経験主義は,言語では太刀打ちできないものを考える──言語の分限という問題の立て方をする。この経験主義に立てば,「<役に立つ>は言い表せないが,きっと当たっている」はあり得る言い方である。

    「複雑系」ということばは,言語では太刀打ちできないものを言い表すことばとしても使える。 「複雑系」のこの意味で,<役に立つ>は複雑系である。
    本論考は,経験主義の立場で,<役に立つ>の問題を複雑系の問題として捉えようとするものである。