Up 「無用の用」──「役に立つ/立たない」が看過するもの 作成: 2010-10-05
更新: 2011-08-09


    「役に立つ」は,出来事である。
    出来事は,現象の空間があり,生起の時間がある。
    この時空間の構成要素になるものはすべて,出来事の実現の要素であり,この意味で,出来事の内容である。

    「役に立つ」は,この全内容の一部が見られているに過ぎない。
    残りは無用とされているわけであるが,この残りが無ければ「役に立つ」の現前はない。 残りの無用は,実は用である。
    この在り方を,荘子のことばを借りて,「無用の用」と呼ぶことにしよう。

     註 : 荘子の「無用の用」は,ここでいう「無用の用」の一部である。 (ここでいう「無用の用」は,荘子の「無用の用」を含む。)
      学校数学の「無用の用」


    学校数学について「役に立つ/役に立たない」を言うときは,この「無用の用」を捉えておく必要がある。 そしてこのときの「無用の用」には,つぎの二つがある:
    A. 勉強した数学そのものの「無用の用」
    ──これを欠くと,<物事を役立てて生活する自分>という体系が立たない
      (「数学を勉強して何の役に立つ?」に対する一つの答え方)
    B. 学校数学の要素主題の「無用の用」
    ──これを捨てると,学校数学が体系として立たない
      (「因数分解を勉強して何の役に立つ?」に対する答え)

    「なぜ学校数学か?」の主題化は,「無用の用」の分析を含むことになる。
    本論考は,これを「学校数学の「無用の用」」の章で行う。