Up OECD 作成: 2009-11-26
更新: 2009-11-27


    いま,OECD-PISA 同調型出口論が,出口論の主流になろうとしている/なっている。

    OECD-PISA を語るときは,先ず,OECD の文化というものを押さえておかねばならない。
    OECD の文化は,普遍的な文化ではない。 文化人類学的・歴史的視点から見れば,特殊な文化であり,相対化して考えるべき文化ということになる。

    OECD の文化は,親経済・親グローバリズムの文化である。
    グローバリズム時代に活躍できる・優位に立てる人間の像が,好ましい人間像になる。
    実際,この像をつくる世界観・人生観は,「無用の用」「煩悩」といった世界観・人生観と対比するとき,ただちに相対化される。

    OECD の文化の語る能力は,"competency" であり,これは競争(compete)力である。
    能力が競争力の意味になる文化は,競争社会の文化である。 競争が重要な意味をもたない社会 (安定期の社会) では,「能力」の意味は「競争力」ではない。

    学校数学の「役に立つ・立たない」も,OECD の文化では「実効的・実際的」の意味で考えられてしまうことになる。 しかし,学校数学の「役に立つ・立たない」は,果たしてこのようなものなのか?
    OECD の文化の時代にあっては,「役に立つ・立たない」が「実効的・実際的」とは別の意味になる世界観・人生観に想いを致せることが重要になる。

    グローバリズムは,各国の教育に対し,浸潤を図る。 冷徹に見れば,OECD-PISA はこれのグローバル展開の一つの形になっている。