Up OECD-PISA 作成: 2009-11-17
更新: 2010-03-15


    出口論には,主流がある。
    ここしばらく OECD-PISA 同調型出口論が顕著であるが,これは出口論の主流を現すものである。 そこで,主流出口論の概観として,この OECD-PISA 同調型出口論の要点を押さえておく。

    OECD-PISA は,自分にとって好ましい人間像をもっている。 そして,自分にとって好ましい人間の布置がどのようであるかを,調査しようとする。 自分に好ましい人間が高い得点をとり,そうでない人間が低い得点をとると予想される試験問題をつくり,これを実施する。
    翻って,OECD-PISA 同調型出口論をつくる者は,つぎの者とイコールである:
      《自分が既にもっている好ましい人間像と
       OECD-PISA の好ましい人間像を,重ねる/同じにする》
    OECD-PISA 同調型出口論をつくる者は,自分の確証を OECD-PISA の中に見出すのである。

    この出口論での<好ましい人間>は,「生きる力」をもつ者である。
    「生きる」の意味は,「問題を解決して生きる」である。
    <好ましい人間>は,問題解決論が出口としているものと同じである。

    好ましい人間の像は,それを立てる者にとってはアタリマエのものである。 「生きる力」は,アタリマエのことである。
    しかしこのアタリマエは,「主流出口論」として相対化されるものである。 主流出口論の外に立つときには,論点になる。

    ここでは,主流出口論の相対化として,つぎの観点からのものを簡単に示しておく:

    1. <好ましい人間像>の文化
    2. ことばになった<好ましい人間像>のリアリティ
    3. <好ましい人間像>の構成の方法論
    4. <好ましい人間像>と教育課程の関係づけ


    A. <好ましい人間像>の文化

    そのことばになった<好ましい人間像>は,どの文化においても<好ましい人間像>となるようなものか?
    OECD-PISA の自分にとって好ましい人間像は,多分に,グローバル経済社会を活動の場としそこでの競争に勝ち残っていく者の像である。これは,われわれにとって,これから長きにわたって信用し同調していくべきものか?


    B. ことばになった<好ましい人間像>のリアリティ

    <好ましい人間像>に適う者 (「生きる力」をもつ者) とは,具体的にだれのことか? そして,その者は確かに「生きる力」をもつ者か?
    また,そもそも<好ましい人間像>は,「<好ましい人間像>に適う人間が社会に占める割合を,どの程度に見積もるか?」というふうに考えねばならないものである。 実際,全員が<好ましい人間像>に適う社会は,人の生きられる社会ではない。 この見積りの計算が閑却されていれば,リアリティもないということである。


    C. <好ましい人間像>の構成の方法論

    OECD-PISA 同調型出口論は,能力概念の分析に向かい,分析された要素能力を実体に見なす。 <好ましい人間像>および<能力>をことばの概念分析で紡ぎ出すのは,西欧合理主義の存在論の形であるところの表象主義 (言語写像論) である。 翻って,OECD-PISA 同調型出口論をつくる者は,表象主義/西欧合理主義に立つ者である。
    <表象主義に立つ>に対しては,<表象主義に立たない>という立場があり得る。 すなわち,表象主義による能力概念の分析・能力実体化を,能力のとらえにはなっていないと見る立場である。 実際,表象主義に立たない思考類型は,古今東西に見いだせる。 <表象主義に立つ>は,一つの相対性である。


    D. <好ましい人間像>と教育課程の関係づけ

    OECD-PISA 同調型出口論をつくる者は,「この出口を実現する指導課程が存る」「出口論をつくったら,後は指導課程をつくるばかり」と考える者である。 この考え方は,<好ましい人間像 ─ 教育課程>の写像論である。
    学校教育・教育行政の失敗の歴史は,この写像論の失敗の歴史であった。 同じ失敗の繰り返しをしてしまうのは,人にとってことばを使うことが考えることだからである。 ことばを使えば,ことばには当然リアルの裏付けがあると思ってしまう。 これは,表象主義である。
    こういうわけで,OECD-PISA 同調型出口論が教育課程を求める形も,表象主義ということで,相対化されることになるものである。