Up 写像論のカテゴリー・ミステイク 作成: 2009-11-21
更新: 2009-11-21


    出口論は,その出口に応ずる指導課程の存在を当て込む。
    そして,この指導課程の実現を呼びかける。

    しかし,出口論は,指導課程の実現を先延にした形で,消えていく。
    指導課程実現の呼びかけに応ずる取り組みが不十分だったわけではない。 むしろ,取り組み一色の状況がつくられる。 それでも,指導課程は実現しない。
    これは歴史的事実である。
    そして,この事実は,指導課程が実現に取り組めばできあがるというものではないことを,暗示している。

    ここで翻って,つぎのような疑問を呈してみる:
     1+1を3にはできない。3にできないのは,はじめからできない構造になっているからである。取り組み・努力・力の結集の問題ではない。1+1を3にしようと考える者がいるとすれば,その者はスタートの時点において間違っている。 さて,出口論と指導課程の間には高々時間差しかないと考える者は,これと同じ類の間違いをしているのではないか?


    《出口に応ずる指導課程の存在を当て込む》は,<出口─指導課程>写像論である。
    この写像論を,ここでは疑ってみるとしよう。

    写像論は,別のカテゴリーのものをつなぐ。 よってこれが誤りになるとき,この誤りは「カテゴリー・ミステイク」のように見えるものになる。
    <出口─指導課程>写像論を疑う形は,「出口と指導課程をつなぐのは,カテゴリー・ミステイクでは?」である。

    <出口─食事>写像論を想像してみよう。
    この写像論は,無理に見える。
    「無理」の意味は?
    食事は出口実現の必要条件ではある。 しかし,「十分条件になるように食事を構成する」という概念は,受け入れられない。 出口と食事をつなぐことは,カテゴリー・ミステイクを感じてしまう。

    <出口─指導課程>写像論ではどうか?
    指導課程を出口実現の必要条件のように考えることはできる。
    しかし,「十分条件になるように指導課程を構成する」は,「十分条件になるように食事を構成する」と大差のないように見えてこないか?
    これが,<出口─指導課程>写像論を「カテゴリー・ミステイク」として疑うときの,「カテゴリー・ミステイク」の感じ方である。

    疑われた<出口─指導課程>写像論は,さらに反証されるところまで行くのか? ──反証とは,「出口に応ずる指導課程は,原理的に存在しない」を言うことである。 すなわち,「力が足りなくて実現できないのではなく,原理的に存在しないから実現もできない」を言うことである。
    本論考は,反証の論を課題として留保する。