Up 存在とことば
──ことばにした<能力><好ましい人間像>のリアリティ
作成: 2009-11-21
更新: 2009-11-28


    ことばは,<存在>を指すようにはできていない。
    われわれは,<存在>をことばに表そうとする。 しかしことばにしたとき,そのことばは<存在>を指さない。
    ことばは,<存在>を指すのではなく,類概念を表すようになっている。 その<類>も歴史・文化の所産であり,歴史・文化の違いによる相違は相対的な意味しかない。

    <能力>をことばにした途端リアリティがなくなるのは,それが能力の類概念になってしまうからである。
    例えば,「問題を解く力」にリアリティはない。 問題は多様で数に限りがない。存在する問題とはそのようなものであるから,「問題を解く力」にリアリティはない。
    また例えば,「コミュニケーション能力」。話し合われていることが自分の知らない専門的な内容だったら,その話の中には入っていけない。コミュニケーションの環に入れるかどうかは,先ずコミュニケーションの内容に依存する。コミュニケーションの内容になるものは,多様で数に限りがない。存在するコミュニケーションとはそのようなものであるから,「コミュニケーション能力」にリアリティはない。

    <好ましい人間像>も,同様である。
    ことばにした途端,それはリアリティを失う。

    例えば,OECD-PISA が示す「好ましい人間」。
    先ず,これは状況依存である。 自分が器用になれる分野がある一方で,不器用になる分野もある──数限りなくある。
    さらに,この「好ましい人間」を 180度ひっくり返しても,「好ましい人間」になる。
    なぜか?
    そもそもひとは,ことばになった<好ましい人間像>にリアリティを見ているのではない。自分がもつそのときどきのイメージを,そのことばに投影しているのである。 そして,社会は個の多様性を欲している。
    OECD-PISA が示す「好ましい人間」は,ことばに過ぎない。リアルには存在しないものである。