Up <出口論─指導課程>写像論 作成: 2009-11-19
更新: 2009-11-19


    出口論をつくる者は,出口論と指導課程の間に写像関係を立てていることになる。 実際,つぎのようには考えない:
      出口論と指導課程の間に写像関係を立てること自体が,論点になる。
    そこで,出口論をつくったら,つぎはこれを学習指導要領に反映させることへ,歩を進める。

    OECD-PISA 同調型出口論の場合であれば,出口の項目につぎのような「リテラシー」を考える:
      「問題場面における数量の関係を概括的にとらえられる」
      「表やグラフから適切に情報をよみとれる」
      「ある判断のもとにいくつかの要素を組み合わせて結果を求められる」
      「不確かな事象について判断できる」
    そして,これが学習指導要領に載ることを提言する ([2])。

    学習指導要領に載ることを提言するとは,続いてつぎのようになると見なしているということである:
      これらの文言が学習指導要領に載れば,
      これを出口に掲げる指導課程がスタートする。

    「これらの文言が学習指導要領に載れば,これを出口に掲げる指導課程がスタートする」という考え方が,<出口論─指導課程>写像論である。
    <出口論─指導課程>写像論は,これを行う者の信念体系になっている。

    現実・歴史は,<出口論─指導課程>写像論の無為・無効を示している。
    「問題解決」は,NCTM Agenda に登場してから,30年になろうとしている。 そして「問題解決」の指導課程は未だ立たない。
    しかしこの事実は,<出口論─指導課程>写像論が信念体系になっている者の思いをくじくものにはならない。
    実際,OECD-PISA 同調型出口論をいまつくっている者は,この出口論に応ずる指導課程が,指導課程づくりの行動を起こすならば必ずや実現すると,信じているのである。("If we build it, they will come.")

    <出口論─指導課程>写像論は,論点である。
    「問題解決」が NCTM Agenda ([9]) に登場し,問題解決の指導課程の実現に多くの者が取り組み,そして30年になろうとしているのに「問題解決」の指導課程が未だ立たないという事実は,直視すべきものである。
    「何か錯覚がある」という思いに至るべきである。
    どんな錯覚か?
    「カテゴリー・ミステイク」が,これを言い表すことばになる。 実際,写像論がミステイクになる形は,「カテゴリー・ミステイク」である。 (ここでいう「カテゴリー・ミステイク」は,G. Ryle ([10]) の論じた「カテゴリー・ミステイク」と同じではない。)