Up 要 旨 作成: 2009-08-24
更新: 2010-10-03


    学校数学は,これを学ぶ者にとって,所与である。
    一般に,ひとは,所与を受け止めるところから始める。 やがて,所与に疑問が生じる。 そして,所与の理由付けを求める。
    学校数学に対してひとが求める理由付けの形は,「役に立つ」である。 実際,「数学を勉強して何の役に立つ?」「自分にとって数学が何の役に立つ?」への答えを求めてくる。

    しかし,納得・満足できる答えは得られない。
    答え方も,ひとや場面・時代によって違ってくる。

    一方,優勢になった答え方は,『学習指導要領』に盛られたりして,学校数学をリードするものになる。
    しかしこのリードは,つぎのどちらかの形で終わる:
    1. 教育がおかしくなって,「これではダメだ」になる。
      ──このときは,これまで劣勢であった答え方に今度は人気が集まり,学校数学をリードする。
    2. 効果が見られず,飽きられて自然消滅する。
      ──このときは,タイプは同じだが装いを変えることで新鮮さをアピールするようなものが,登場する。

    Aタイプ
    学校数学では,二つの対極的な答え方が,この繰り返しを歴史的に演じてきた。 「形式陶冶」「実質陶冶」がこれである。
    この二分法は,時代に応じて形式陶冶・実質陶冶の脚色の差異が見られても,考え方の基本は変わらずにこれまで続いてきている。

    Bタイプ
    これは,出口論主流の場合である:
      「数学的考え方」→「問題解決学習」→「数学的リテラシー」


    数学を勉強して何の役に立つ?」の答えは,<賞味期間>を以て優勢・劣勢を交替するイデオロギーに求めることはできない。 また,「数学を勉強して何の役に立つ?」の答えは,<賞味期間>を以て優勢・劣勢を交替するイデオロギーに任せてよいものではない。
    そこで,「数学を勉強して何の役に立つ?」の答えを改めて考えることになる。

    数学を勉強して何の役に立つ?」の問いに対する答え方を課題にし考察に入るとき,「役に立つ」の意味が自明でないこと,よって「役に立つ」の意味のところから論点にしていかねばならないことが,すぐにわかってくる。
    そしてこのとき,「数学を勉強して何の役に立つ?」は,「役に立つ・立たない」で答える問題ではなくなる。 すなわち,「なぜ学校数学か?」というより広い (より漠然とした) 形に替えた上で,これに答える問題になる。

    実際,「数学を勉強して何の役に立つ?」に対し「役に立つ・立たない」で答えるのは,<数学=道具>の考え方 (道具主義) である。そしてこの場合は,「<数学=道具>を与えるもの」が,学校数学を理由づける形になる。
    しかし,実感としては,数学を道具として持っているというよりは,数学がカラダ (体質・傾向性) になっているという感じがある。 そしてこの場合は,「<数学=滋養>を摂取させるもの」「<数学=運動>を課すもの」が,学校数学を理由づける形になってくる。

    <数学=道具>の考え方は,表象主義/合理主義の哲学に拠っていることになる。
    表象主義は,世界とことばの鏡像理論である。 特に,「カラダの実体の上に現れる意味は,ことばに写像される」となる。 ことばに写されるカラダは<機械>である。こうして,表象主義では<人間=機械>になる。 実際,これが「認知科学」である。 そして,<数学=道具>の論述は,この認知科学に拠ることで可能になる。

    一方,学校で数学を教えることを「滋養を取らせる・運動を課す」と捉えるのは,カラダづくりの契機としての数学をとらえ,カラダとしての数学を考えることである。
    いま食べたもの・いま行った運動は,消化/昇華されるのであって,カラダに印を残さない。 同様に,いま勉強した数学は,消化されるのであって,カラダの中に道具のように蓄えられるのではない。 この「カラダに吸収・消化される数学」の論述が,課題になる。

    表象主義/認知科学は,この課題に対し無力である。 なぜなら,表象主義/認知科学は<人間=機械>を方法にし,そして「吸収・消化」は機械には無いものだからである。 「なぜ学校数学か?」の論述で「カラダに吸収・消化される数学」を立場とするものは,表象主義を退けるところから始めることになる。

    しかし,表象主義を退けることは,ことばを使えなくすることである。 すなわち,自らを,「無記」「語り得ぬものについては,沈黙しなければならない」の地平に立たせることである。

    本論考が課題とする「なぜ学校数学か?」の論述は,この構造的・絶対的ディレンマを抱える。 よって,これは「論述の可能性」という一般的課題へのチャレンジでもある。