Up 論述の困難──<ことばを使う>の意味 作成: 2008-10-06
更新: 2011-08-12


    「よいカラダ」の論述は,たちまちことばに窮する。
    この「ことばに窮する」は,構造的・本質的なものであり,こうなるしかないものである。
    どういうことか?
    言い表せるとは,言い表したい対象とことばの間に写像関係が立っているということである。
    しかし,ここでいう「よいカラダ」のカラダ (傾向性) は,位相変化する神経細胞のネットワークである。 ことばは,これの写像のようにはできていない。,

    一般に,論述はことばを使い,ことばを使うという以上のことはできない。
    ところで,ことばは,《ことばには実体が対応する》というふうになっている。
    「よいカラダ」の論述は,経験・傾向性の論述がほとんどになるが,この論述が実体論になる。 そして,実体論はウソになる。

    一方,西洋哲学の伝統は実体論であり,認知科学の主流も実体論である。
    数学教育学の主流は,認知科学の上に数学教育学を据えようとするものであり,実体論である。
    実体論は,つぎの存在論を立てる:
      「実体に顕れている意味とことばが対応する」
    論述において実体論の立場をとることを,表象主義という。

    本論考は,表象主義を退ける立場に立つ。 論述というものは表象主義に拠らねばつくれない (ことばとはそういうものである) ことを承知しつつも,表象主義を退けることを「カラダ」の論述の要諦としなければならない。

    ちなみに,「無記」「語り得ぬものについては,沈黙しなければならない」は,論述のこのディレンマに際しての境地の表現である:
    1. Wittgenstein は,「語り得ぬものについては,沈黙しなければならない。」と言った。
    2. 東洋哲学/思想は,最初から<ことばの及ばない境地=語らない境地>の概念を立て,「重要なのはこの境地の方である」としてしまうところに,西洋流と比較したときの特徴がある。