Up ここまでの論考 作成: 2010-07-14
更新: 2010-09-23


    学校数学については,「役に立つ/立たない」の論議が起こる。 すなわち,「数学を勉強して何の役に立つ?」の論が起こる。
    このとき,「役に立つ/立たない」の意味についてはわかったつもりでいる。 しかし,「役に立つ/立たない」の意味が,この場合肝心なところなのである。
    実際,意味を問題にすれば,論は自ずと難解な学術的内容になっていく。 そしてこのときには,「役に立つ/立たない」の意味を自明にできないので,「数学を勉強して何の役に立つ?」の問いを「なぜ学校数学か?」の形に拡げることになる。

    こういうわけで,「なぜ学校数学か?」の答えを課題化した。(§「主題 ──「なぜ学校数学か?」への答えを課題に」)
    この中で,つぎのことを論じた:
      数学の<役に立つ>の論述は,矛盾である:
        論述は,表象主義/合理主義になる。
        数学の<役に立つ>は,表象主義/合理主義では論述できない。

    数学教育学は,学校数学の<役に立つ>の論を,学校数学出口論としてもっている。
    出口論は,学校数学のアウトプットとすべき<好ましい人間>を措定し,そしてこれを実現する指導課程づくりを課題にする。 この出口論は,数学教育学のパラダイムとなって,研究実践を駆動する。
    学校数学の<役に立つ>の論考は,数学教育学のパラダイムになっている学校数学出口論との関係を示しておくことが必要になる。 これを §「出口論 ──現前の出口論の押さえ」 で行い,そしてつぎのことを論じた:
      現前の出口論は,表象主義/合理主義に立つ。
      表象主義/合理主義の出口論は,数学の指導課程をつくるものにはならない。
      しかし,指導課程がつくられるかどうかは,出口論の意義とは関係のないことである。
      実際,出口論の意義は,指導課程を実際につくることではなく,数学教育界の活性を生み出すことにある。 学会においては,パラダイムとして機能して,学会の活性を生み出すことにある。


    現前の出口論は,「なぜ学校数学か?」の答えにならない。
    本論考は,「数学(実質陶冶) で一般陶冶」の出口論を,これに対置することになる。
    「数学(実質陶冶) で一般陶冶」を立てることのうちには,<数学=道具>の考えから出てくる「役に立つ・立たない」を無意味とすることが含まれる。これをここで行う。