Up <用>の構成素はそれ自体では無用 作成: 2008-09-13
更新: 2011-07-22


    物事を小さな構成分子で見ていくと,それらは,「それが欠ければ,世界がだめになる」みたいには存在していない。 「それが欠けても,世界は前と同じ」みたいに存在している。
    「それが欠けても,世界は前と同じ」というわけなので,このようなものを片っ端に除いてみる。 すると,どれもが「それが欠けても,世界は前と同じ」みたいに存在するものなので,世界には何も残らなくなる。
    つまり,「それが欠けても,世界は前と同じ」みたいに存在するものは,無くてかまわないものなのではない。 世界は,「それが欠けても,世界は前と同じ」みたいに存在するもので成り立っている。

    これはそのまま,「無用の用」の話になる:

      <用>を分析し,部分・要素に分けていく。
      これを進めていくと,<無用>の集合に至る。
      用が無用に転じるポイントが分析の過程のどこかにあるというわけではない。
      それ自体では無用なものが<用>を構成しているということである。

    あることの「役に立つ」は,それを構成するものの「役に立つ」が集まったものではない。 このときの「役に立つ」のモデルは,累加モデルではない。つぎのものである:
      一つひとつは「役に立つ」ではないものが集まって,「役に立つ」になる。
    この「無用の用」を,つぎの図式で捉えるとしよう:

      意味は,<意味の構成要素>の階層に構造化される。
      <意味の構成要素>の階層では,構成要素が細かくなるほど,個々の要素の実感的「役に立つ」が言い難くなる。
      特に,「役に立つ」は,「どの階層から言えて,どの階層までは言えない」というものではない。