Up はじめに 作成: 2008-09-13
更新: 2011-08-02


    数学を勉強したくない学生は,数学忌避をつぎのように合理化する:
     数学を勉強しても,それを使うことはない。
     日常生活で使うだけのものを教えてくれればよい。
    さて,「日常生活で使うだけのもの」とは,実際にどれのことか?
    それは,《それだけを残して他を無くす》ができるようなものなのか?

    ことばは便利である。「使う」とか「役に立つ」を考えも無しに言える。
    「使う」「役に立つ」とは,どんな内容のものになるのか?

    「役に立たない」を言うときには,「役に立つ」とはどういうことかを考えねばならない。
    そしてこれをするとき,「無用の用」を遍く見出すことになる。


    物事の「無用」は,その物事の連関を問い始めるや否や,言えなくなる。 ──翻って,「無用」を言えるのは,その物事の連関を考えていないためである。

    物事の「無用」がその物事の連関を問い始めるや否や言えなくなることを,「無用の用」と謂う:

      惠子謂莊子曰:子言無用。
      莊子曰:知<無用>而始可與言<用>矣。
          夫地非不廣且大也,人之所用容足耳。
          然則廁足而墊之,致黃泉,人尚有用乎?
      惠子曰:無用。
      莊子曰:然則無用之為用也亦明矣。
        
      歩くとき,大地のうち,自分の足がついた部分しか使っていない。
      では,その部分のみを残して,残りを削り取る。
      それは依然歩くのに使えるか?
      (『荘子』, 雑篇・外物 7)

    しかし,「無用の用」は,学習経験を積まないとわからない。
    そこで,学生などは,「数学は,日常生活で使うだけのものを教えてくれればよい。」みたいなことを言ってしまう。 「日常生活で使うだけのもの」を切り取ることができると思ってしまうわけである。


    本論考『「「無用の用」──「有用・無用」の無意味』は,つぎのことを押さえる:
      「有用・無用」のことばが日常的に用いられるときの,その論考のレベル・次元
    そして,つぎを結論する:
      物事の「無用」は,その物事の連関を問い始めるや否や,言えなくなる。 ──翻って,「無用」を言えるのは,その物事の連関を考えていないためである。