Up 要 約 作成: 2011-09-03
更新: 2011-10-03


    学校数学の存在理由は,つぎのように論ずるものになる :
      数学で勉強した内容は使うことがない。
      勉強した内容も忘れていく。
      一方,この勉強は成長の要素であり必要である。
    形としてこれは「無用の用」論である。

    このときの「無用の用」は,傾向性の形成である。
    即ち,勉強した数学の内容が自分のうちで無くなっていくことの一方で,自分のうちで残るものがある。 それは,傾向性である。

    そしてこの傾向性形成が,「形式陶冶」に他ならない。
    実際,傾向性は「if(状況)─then(行動)」で機能的に表現されるが,この「if─then」が「形式」にあたる。

    こうして,「形式陶冶」が学校数学の意義であることになる。

    学校数学の方法論は,学校数学の意義に応じる。 よって,「形式陶冶」に応じることになる。
    そしてそれは<数学を教える>になる。
    実際,<数学を教える>に不足はない。学校数学の当為は,これに尽くされる。

    <数学を教える>の内容の主題化は,授業論・教師論である。
    授業は技(わざ)である。 この技が身についていることが,教師の要件である。
    しかしこの技は,修行と経験蓄積によって少しずつ身につけることができるというものである。