Up 「学校数学=<数学を教える>」に不足はない 作成: 2011-09-02
更新: 2011-10-13


    知識の教え込みではなく,思考力をつける」の言い方があるように,「数学を教える」という言い方は,定めし,《学校数学としてやることの多くが捨てられる》という受け取り方を招く。 しかし,その受け取り方は間違いである。

    「教える」は,相手が<わかる>に至った限りで「教える」である。 <わかる>に至らないのは,「教える」ではなく「教えているつもり」である。
    「教える=わかる」である。

    「教える=わかる」であるためには,授業者は余程多くのことをしなければならない。
    <数学を教える>は,この「教える=わかる」を行う。 この結果,学校数学の当為全体を行うものになる。
    実質陶冶も,これに含まれてくる。
    翻って,学校数学の当為全体を行うようになっていなければ,それは<数学を教える>ではない。

    <数学を教える>に,不足はない。 <数学を教える>は,学校数学の完備な形である。
    他のことを加えようとするのは,余計を犯すことである。 余計は,余計にとどまるのではなく,障碍である。
    数学をただ勉強していてよいのか?」「数学をただ教えていてよいのか?」に対しては,「そうだ」と答えることになる:

      生徒:「数学をただ勉強していてよいのか?
    そうだ。きちんと数学を勉強することだけを考えればよい。(ブレないことが肝要。)
    教師:「数学をただ教えていてよいのか?
    そうだ。きちんと数学を教えることだけを考えればよい。(ブレないことが肝要。)
     ただし,<数学を教える>は,意識に能力が伴って実現となる。授業者に求められるものは多い。