Up おわりに──結論 作成: 2011-09-03
更新: 2011-10-13


    「学校数学の勉強は何のため?」の論点は,勉強した内容を用いるようになるかならないかではない。 用いる・用いないをいえば,用いない。
    学校数学を理由づける形は,「無用の用」でなければならない。

    この学校数学の「無用の用」は,傾向性形成の意味で考えることになる。

    傾向性の形成は,風化造形である:《堆積があり,風化があり,残って現れる形がある。》 そしてこの風化造形が,「形式陶冶」である。
    学校数学の「無用の用」の傾向性形成は,形式陶冶である。

    形式陶冶は,《堆積物を構築する,つぎにこれを風化にさらす,残って現れてくるものが所期の形式》という迂遠なプロセスである。 形式陶冶は,「忘れるために勉強する」迂遠なプロセスである。
    しかし,このプロセスの他ではあり得ない。

    形式陶冶の素材──忘れるために勉強するところのもの──は,数学である。そこで,これの良質であることが,形式の良質につながる。したがって, 形式陶冶の方法は,「良質な数学をしっかり勉強する」であり,この意味での<数学を教える>である。
    形式陶冶を実現する授業形態は,<数学を教える>である。


    ちなみに,「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」の類は,「形式の実現方法」の考え方で根本的な間違いを犯していることになる。 すなわち,形式の直接構築── (1) 形式の直接陶冶,そのための (2) 数学を使うリアルな問題の指導──をやろうとする。 形式を直接構築されるものとして定めるところで,間違っている。

    <数学を教える>は,ひとを数学の勉強に向かわせるものは《自分の経験していない世界を経験したい》の<向学心/向上心>であるとする考え方からも導かれるものである。
    <数学を教える>に応える学習動機は,向学心/向上心である。

    <数学を教える>に不足はない。 <数学を教える>は,数学教育の完備な形である。
    実質陶冶も,<数学を教える>の含蓄になる。 すなわち,<数学を教える>をやれば,それは必然的に実質陶冶になる。
    数学だけを教えていればよいのか?」に対しては,「そうだ」と答えることになる。

    <数学を教える>は,難しい。 授業者に求めるものが多い。 すなわち,<数学>の何たるかをわかっていること,<教授-学習>の何たるかをわかっていることが,授業者の要件になる。
    特に,<数学><教授-学習>は,数学者・数学教育者を立場/職業にしている者ならわかっている,というものではない。 立場/職業は,それだけのものである。 能力の含意はない。

    実際,<数学を教える>は,技(わざ) である。
    この技を磨く実践は,修行である。
    ──「10年かかるものは10年かかり,20年かかるものは20年かかる」の世界の修行である。

    <数学を教える>に対する「技─基本・熟練」の見方は,強調される必要がある。 というのも,授業はアイデアだと思っているふうが,見られるからである。
    特に,数学教育学の中ではそうである。 「アイデア実験群が統制群より有意に高得点」が,授業の優劣を論じたことになってしまう。
    授業がアイデアの問題なら,<経験>は授業力の要素でなくなる。 しかし事実は,授業理解・授業力は「10年かかるものは10年かかり,20年かかるものは20年かかる」でつくられていくものなのである。