Up | 本論考の構成 | 作成: 2011-09-03 更新: 2011-10-15 |
1. 学校数学の「用」は,「無用の用」 学校数学の「用」は,つぎの「無用の用」の形で立てるのみである:
2. 学校数学の「無用の用」は,「形式陶冶」 「無用の用」は,つぎを要点とする:
この「あるもの」のつくられることが,学校数学の「用」になる。 そして「傾向性」が,この「あるもの」である。 「傾向性」は,「能力」も含む,射程の広い概念である。 「傾向性」は,「if(状況)─then(行動)」の形で機能的に表現される。 これは「形式」の表現になっており,「形式陶冶」の「形式」はこれにあたる。 よって,学校数学の「無用の用」は「形式陶冶」ということになる。 3. 「形式」とは何かの押さえ ところで,「形式」は存在としてどのように考えることになるものか? 「形式」は,「規模の大きな概念」である。 「形式」と「概念」の違いはニュアンスの違いであり,違いを感じさせているものは「大きさ」である。 形式の形成メカニズムの《堆積 → 中身が抜ける》は,個人の環境・経験値に依存する。 したがって,形式は個依存である。 「形式」は,<実感される>がこれの存在のしかたである。 形式の実感は,年齢と関係するところがある。 実際,加齢に伴い,形式行動が増える。またリアルな通時的比較の領域が拡がる。そこで,「形式」の実感も増す。 4. 数学が陶冶する形式の押さえ ここまでの行論で,学校数学の「無用の用」は「形式陶冶」ということになった。 そこで,「無用の用」の立論は,つぎの論に進む:
数学の勉強は,数学という学問の特性から,<普遍指向・形式指向・体系指向・論理指向・還元主義・構成主義の勉強>というふうになる。 これに応じて,普遍指向・形式指向・体系指向・論理指向・還元主義・構成主義の明晰性が,数学で陶冶される形式の特徴になる。 数学の勉強は,自ずと<形(構造)>の方法論の鍛錬,そして<形(構造) の理論>の方法論の鍛錬になっている。 数学を素材にしたこの鍛錬は,「形( 構造) をとらえる力」「理論化する力」と呼べるような傾向性をつくる。 数学の勉強で陶冶される傾向性は,PISA/OECD が主題化するような「生きる力 (=今を生きる力)」とはむしろ逆のものになる。 すなわち,「普遍指向」である:「ムードに流されない落ち着いた境地・達観」 5. 形式陶冶の方法は,<数学を教える> 形式は,勉強した数学の内容が自分のうちで無くなっていくことの一方で,自分のうちで残るものである。 実際,「無くすことで得る」が,<成長>の要諦である。 形式陶冶の方法は,<数学を教える>である。 翻って,形式の直接陶冶を教育にしようとする考え方は,間違いということになる。 ──「数学的考え方」「数学的問題解決」「数学的リテラシー」の類は,この錯誤をやっていることになる。 6. <数学を教える>に対応する学習動機:向学心/向上心 <数学を教える>は,数学の「無用の用」が数学学習の意味である。特に,「数学は無用」を立場にする。 そこで,つぎの疑問になる:
これに対する答えは,つぎのものである:
7. 「学校数学=<数学を教える>」に不足はない <数学を教える>は,数学を<使うもの>として教える。 すなわち,<数学を教える>は実質陶冶になる。 <数学を教える>は,形式陶冶であり実質陶冶である。 この<数学を教える>に,不足はない 学校数学の当為全てが,これの射程に入ってくる。 逆に,<数学を教える>を不足のように受け取り,余計に作為するとき,学校数学の当為から外れていく。 8. <数学を教える>の条件 <数学を教える>は,自明にしてかかると間違う。 <数学を教える>の内容を主題化する論が続かねばならない。 これは,授業論・教師論である。 <数学を教える>は,授業者に求めるものが多い:
そして,<数学を教える>は熟練の技である。 授業者は,修行あるのみ。ショートカットは無い。 <数学を教える>論は定石論であり,「授業のアイデアいろいろ」ではない。 そして<数学を教える>の授業は,つぎが「授業の極意」となるようなものである:
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