Up 全体主題に対する本論考の位置づけ 作成: 2011-09-03
更新: 2011-10-04


    本論考は,「数学の勉強は何のため?」の答えの論考の一章である。

    本論考は,つぎを立論しようとする:
      数学で勉強した内容は,使うことがない。
      勉強した内容も,忘れていく。
      一方,この勉強は,成長の要素であり,必要である。
    形としてこれは,学校数学「無用の用」論である。
    学校数学の「用」をこの「無用の用」の形で立てようというのが,本論考の趣旨である。

    本論考は,この「無用の用」を,つぎのように解釈する:
      数学の勉強は,ある傾向性がつくられるためである。
      そして,傾向性のでき方は,<風化造形>である。
    すなわち,
      数学の勉強は,<堆積>。
      勉強した内容を忘れることは,<風化>。
      このメカニズムが傾向性を現すプロセスは,<風化造形>。

    このときの傾向性が,「形式陶冶」でいう「形式」である。
    そこで上の解釈は,転調されてつぎのようになる:
      学校数学の「無用の用」は,形式陶冶。
      形式陶冶の方法は,<数学を教える>。
    すなわち,つぎの結論になる:
      学校数学 = 形式陶冶 = <数学を教える>

    本論考は,さらに
      <数学を教える> = 実質陶冶
    を立てる。そこで,つぎの結論になる:
      学校数学 = 形式陶冶 = 実質陶冶

    こうして,本論考は,つぎの主張をするものになっている:
    1. 数学の勉強は何のため?」の答えは,「形式陶冶」。
    2. 形式陶冶の方法の<数学を教える>は,実質陶冶になっている。
    3. <数学を教える>に不足はない。──学校数学=<数学を教える>