本論考は,「数学の勉強は何のため?」の答えの論考の一章である。
本論考は,つぎを立論しようとする:
数学で勉強した内容は,使うことがない。
勉強した内容も,忘れていく。
一方,この勉強は,成長の要素であり,必要である。
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形としてこれは,学校数学「無用の用」論である。
学校数学の「用」をこの「無用の用」の形で立てようというのが,本論考の趣旨である。
本論考は,この「無用の用」を,つぎのように解釈する:
数学の勉強は,ある傾向性がつくられるためである。
そして,傾向性のでき方は,<風化造形>である。
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すなわち,
数学の勉強は,<堆積>。
勉強した内容を忘れることは,<風化>。
このメカニズムが傾向性を現すプロセスは,<風化造形>。
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このときの傾向性が,「形式陶冶」でいう「形式」である。
そこで上の解釈は,転調されてつぎのようになる:
学校数学の「無用の用」は,形式陶冶。
形式陶冶の方法は,<数学を教える>。
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すなわち,つぎの結論になる:
本論考は,さらに
を立てる。そこで,つぎの結論になる:
こうして,本論考は,つぎの主張をするものになっている:
- 「数学の勉強は何のため?」の答えは,「形式陶冶」。
- 形式陶冶の方法の<数学を教える>は,実質陶冶になっている。
- <数学を教える>に不足はない。──学校数学=<数学を教える>
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