Up | <数学を教える>は,向学心を学習動機と定める | 作成: 2011-09-01 更新: 2011-09-10 |
数学の勉強は,勉強した内容を忘れることを見込む。 「忘れる」は,必要なこととして予定される。 勉強は「忘れるための勉強」というふうになる。 しかし,「忘れるための勉強」を,ひとはいったいやろうとするだろうか? これに対し本論考が用意する答えは,以下のものである。 ひとはいろいろな行為をし,これらが糧になったものとして<成長>が現れる。 ところでこの<成長>は,それぞれの行為の内容の<累積>ではない。 それぞれの行為の内容は,自分のうちで消えて無くなる。 行為は,「忘れるためにする行為」である。 「忘れるためにする行為」であるということは,ひとがこれを退けるということでない。 小説を読もうとか映画を見ようとかするときは,それの内容をすぐに忘れることがわかっている。 かといって,刹那的楽しみをこれらに求めているのでもない。 数学の勉強も,これと同じことになる。 すなわち,ひとは,「そこに一つの世界がある」というものに対し,その世界を経験したいと思う。 この世界を経験しないことを,損であると思う。 これを<向学心>と呼ぶことにすれば,ひとは<向学心>を本能 (DNA)にしている。 ひとが数学の勉強に向かうとき,そうさせているものは,ひとの本能としての<向学心>である。 実際,本論考はさらに進めてつぎのように言いたい:生き物の生き物である所以は<向学心>である。 |