Up 要 約 作成: 2009-11-04
更新: 2013-07-10


    本論考は,全体論考の一モジュールとしてとしてつくるものである。
    全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。

    「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代えている。
    ただし,「学校数学は何のため?」の問いだと,まだ広く漠然としている。
    そこで,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対する答えづくりに限定する。
    この問いは,「学校数学の勉強は自分にとって何のため?」である。
    そしてこの答えは,すべての生徒に学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるものである。

    これらの限定は,「学校数学は何のため?」の部分的な論考に入るということではない。
    問題の核心に近いところから論考に入るということである。
    特に,問題の一般性ないし本質を失するものではない。


    すべての生徒に学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるときのその「得」は,「形式」とするのみである。
    特に,学校数学は「形式陶冶」として立つのみである。
    では,この「形式陶冶」はどのようなものになるか?
    ここに,立場の違いが現前する。 そして,多様な「形式陶冶」論を現す。
    しかし,その多様は,構造の視点からは<見掛け>である。
    即ち,構造的には,立場は2通りで,したがって「形式陶冶」論は2通りである。

    実際,「形式陶冶」を立てることは「学校数学を勉強する」と「形式を得る」の間の因果律を立てることであるが,因果律は「学校数学」と「形式」の同定が先決問題になる。 そして理論構築は,このときつぎの2つの立場に分かれる:
    1. 「学校数学」を定めて,これに応ずる「形式」を保留にする
    2. 「形式」を定めて,これに応ずる「学校数学」を保留にする

    学校数学をリードする理論は,Bである。
    Bが,学校数学をリードする理論になる。
    理由は,つぎの二つである:
    1. ひとは,先が不明な方ではなく,先が明確な方を選ぶ。
      この場合は,Aの方ではなくBの方を選ぶ。
    2. 「学校数学」の保留は,数学教育界・学校現場を攪乱することになる。
      この攪乱は,数学教育と連関する系 (これはひじょうに大きな系になる) の経済活性化である。
      Bには,この<経済効果>の機能がある。
      これは,Aには無い。

    Bは,「出口論」と称しているものがこれである。

    本論考は,この出口論が主題であり,出口論の構造とこれの含意 (implication) の論考である。
    そしてつぎが,この「構造」と「含意」の内容である:

     構造:
      「形式陶冶」の理論構築は,「学校数学」と「形式」を同定するステージで,つぎの二つの立場に分かれる:
      1. 「学校数学」を定めて,これに応ずる「形式」を保留にする
      2. 「形式」を定めて,これに応ずる「学校数学」を保留にする
      Bは,「出口論」と称しているものがこれである。

      実際,出口論は,「形式」を「生きて働く力」に定める。
      「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。
      そして,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) を棚上げすることになる。

     構造の含意:
    • 出口論の機能性
      「学校数学」の保留は,数学教育界・学校現場を攪乱することになる。
      この攪乱は,数学教育と連関する系 (これはひじょうに大きな系になる) の経済活性化である。
      出口論には,<経済効果>の機能がある。

    • 出口論のライフサイクル
      攪乱は,やがて飽きられる。 経済効果は減衰する。
      ここに,出口論の意匠のリセットが起こる。
      そして,数学教育界を舞台にした新世代の登場・旧世代の退場 (「世代忘却」) が,リセットを可能にしている要因の最も大きなものである。