Up | 要 旨 | 作成: 2009-11-16 更新: 2013-07-10 |
全体論考は,「学校数学」の意味の論考である。 「学校数学」の意味の論考は,論考の趣意を外さないために,「学校数学は何のため?」の問いの答えづくりに代えている。 ただし,「学校数学は何のため?」の問いだと,まだ広く漠然としている。 そこで,生徒の側からの「学校数学の勉強は何のため?」の問いに対する答えづくりに限定する。 この問いは,「学校数学の勉強は自分にとって何のため?」である。 そしてこの答えは,すべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるものである。 これらの限定は,「学校数学は何のため?」の部分的な論考に入るということではない。 問題の核心に近いところから論考に入るということである。 特に,問題の一般性ないし本質を失するものではない。 すべての生徒に「学校数学の勉強は,あなたに得がある」と答えるときのその「得」は,「形式」とするのみである。 特に,学校数学は「形式陶冶」として立つのみである。 では,この「形式陶冶」はどのようなものになるか? ここに,立場の違いが現前する。 そして,多様な「形式陶冶」論を現す。 しかし,その多様は,構造の視点からは<見掛け>である。 即ち,構造的には,立場は2通りで,したがって「形式陶冶」論は2通りである。 実際,「形式陶冶」を立てることは「学校数学を勉強する」と「形式を得る」の間の因果律を立てることであるが,因果律は「学校数学」と「形式」の同定が先決問題になる。 そして理論構築は,このときつぎの2つの立場に分かれる: Bは,「出口論」と称しているものがこれである。 出口論は,「形式」を「生きて働く力」に定める。 「学校数学」を,「生きて働く力」単元の構成と定める。 そして,「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) を棚上げすることになる。 出口論が唱える「生きて働く力」は,どのような概念か? 「生きて働く」の反対は,「生きて働かない」である。 「生きて働かない」は,「役に立たない」である。 翻って,「生きて働く」は,「役に立つ」である。 そして,「役に立つ」は,「社会的行為を実現する」である。 出口論は,社会成員たるにふさわしい人間を,アウトプットに措定するものである。 出口論は,人材論である。──「人材」の意味は,「人は社会の材」。 出口論は,「生きて働く力」をどのように論述するか? 出口論は,表象主義/合理主義に立つ。 「生きて働く力」を,表象主義/合理主義の方法で論述する。 学校数学をリードする理論は,Aではなく,B (出口論) の方である。 B (出口論) が,学校数学をリードする理論になる。 理由は,つぎの二つである: 出口論は,学校数学を,「生きて働く力」単元の構成と定める。 「生きて働く力」単元の具体的内容 (「何をどう教えるのが,これの授業か?」) は,棚上げするにする。 出口論は,学校数学の指導課程をつくるものにはならない。 一方,指導課程がつくられるかどうかは,出口論の意義とは関係のないことになる。 出口論は,数学教育界の活性を生み出すことをこれの機能として現す。 (学会の場合だと,パラダイムとして機能して,学会の活性を生み出す。) 出口論は,この機能を自身の意義にする。 出口論は,ライフサイクルがある。 即ち,攪乱は,やがて飽きられる。 経済効果は減衰する。 そして,出口論の意匠のリセットが起こる。 ここで,数学教育界を舞台にした新世代の登場・旧世代の退場 (「世代忘却」) が,リセットを可能にしている要因の最も大きなものである。 |