Up 出口論主流と指導課程の関係 作成: 2009-11-15
更新: 2010-11-09


    本論考は,学校数学の「役に立つ」を《学校数学=一般陶冶》の立場で考える。 そこで,「役に立つ」の論は,「一般陶冶」の「一般」の内容を論ずるものということになる。
    問題は,「一般」がどのように論述されるものになるかである。


    数学教育学では,「一般」を論ずるのに,言語写像論/表象主義を用いてきた。 「一般はことばに表され,そしてことばは一般を指示する」という立場である。
    実際,数学教育学が思考する「科学」は,西欧合理主義につき,そしてこれは言語写像論/表象主義である。

    数学教育学が学校数学の出口論 (「学校数学で,どのような人間をつくるか?」) をつくるときのやり方は,「一般」を表象主義でことばにするというものである。( 出口論主流の型──表象主義 )
    そして「一般」をことばにしたら,つぎにこれを実現する指導課程づくりを課題として立てる。

    しかし,このような指導課程はつくれない。
    「一般」はことばに過ぎない。 「○○する力を数学で陶冶する」は言えるが,「○○する力を陶冶する数学指導課程」(<数学で>の指導課程) はつくれない。
    表象主義はカテゴリー・ミステイクになる。 これがこの問題の要点である。

    数学教育学は,指導課程づくりを課題にする。 そして,それ以上は進めない。
    しかし,進めないということは,課題を先延ばしにできるということであり,数学教育学をその間やっていけるということである。
    実際,数学教育学は,飽くことなく出口論をつくり出す。
    出口論のバージョンアップで,自分を維持しているのである。


    こうして,つぎが導かれる:
      「出口論をもつと,指導課程をもてない」
    そしてこれは,つぎと対になる:
      「指導課程をもつと,出口論をもてない」

    実際,本論考は
      「<数学を>の指導課程が一般陶冶になるのであり,
       一般陶冶を<数学で>の指導課程に求めるのはまちがい」
    の論をつくろうとするものであるが,このときの難題が一般陶冶の出口論である。
    出口論は,ことばでつくる。 そして,表象主義を退けるとは,ことばを退けるということである。